恐れにより奪う在り方から惜しみなく与える愛へ
与えるのは、有り余るほど持っているから与えるのではなく、与えるから無限にあふれてくるのだという、既に頭では知っていることを、自分で体現して証
与えるのは、有り余るほど持っているから与えるのではなく、与えるから無限にあふれてくるのだという、既に頭では知っていることを、自分で体現して証
執着するという状態をよく見ていくと、そこには必ず「現状の否定」があるような気がします。「これは嫌だ。もっと別のが良い」と、目の前のものを拒絶
「私に幸せは与えられていない」という思考の前には、身体の中心軸をズンと突き抜けるような衝撃と脱力感、失望と悲しみなどがありました。これをゆっ
けれど、時間は絶え間なく未来から流れ続けます。決して終わることはありません。それは永遠に流れていく宇宙の摂理です。どうしてその流れに私たちが
インドの聖者ラマナ・マハルシは、「私を覚えていることが恩寵である」と言いました。出会っても、すぐに忘れていく人もいたり、さっぱり覚えない人、
「悪い人」だったり「無責任な人」だったりしたときに、私は何とも落ち着かない気持ちになります。この状態から相手にしてあげる行為は、その人のため
恐怖に巻き込まれていると、母の死で自分がこの世界から取り残されたような、言いようのない分離感を感じていましたが、今この恐怖を受け止めたところ
自分に向き合う作業を誠実に、着実にやって行けば、自然と直感は鋭くなっていきます。それは何も特別なことなのではなく、それこそが本来の私たちの自
臭いものにはフタ、面倒なものはできるだけ触れずに素通りするのでは、決して得られない深い気づきと恩寵があります。ただ願いが叶えばいいというそれ
明らかに分かっていることについて敢えてさらに説明する必要はない、ということでそこを省く。省くけれど、それが分かりにくくなるかというとそうでは