本質を求める感性
型や教えは大切なものですが、それ自体を崇め奉るのは、ちょっと違うのかな、と思います。全くの枠組みだけにしか意識及ばず、それが指し示しているも
型や教えは大切なものですが、それ自体を崇め奉るのは、ちょっと違うのかな、と思います。全くの枠組みだけにしか意識及ばず、それが指し示しているも
日々暮らす、何気ない日常。その中で、ふと、人が生まれ、成長し、様々な出会いと別れを繰り返して喜びや悲しみや怒りや絶望などを経験し
強烈に深い闇に向き合っている最中は、こんなにドロドロな自分はダメな人間なんじゃないかなどと思えたりすることもありますが、逆に言えば、そのくら
お作法も大事ですが、そこから外れた行為を自分がすることを、ひどく恐れているのですね。つまり、間違いを犯してしまったのではないか、とすごく心が
セッションでも、しばしば何百年、何千年も絶望の淵に沈んだような魂の救出作業をすることがありますが、どれだけ長いこと闇に閉ざされていたとしても
その人の可能性、光を善きものとしてお祝いする祝福という行為は、その光をエンパワメントし、隠れていた力を引き出す助けになるのです。そんな眼差し
誇り高い人は力強く威厳があり、心が正しく、見るからに美しい輝きを放っていて清々しい印象を与えます。この力強さというのは、単に腕っぷしが強いと
自分の知らないところで祈ってくれた誰かのために。あと一歩のところで闇落ちしそうだった自分の手を掴んで引き上げてくれた誰かのために。明るい方へ
ダイヤモンドの原石を磨くことは、自分を信頼し、自分自身に誇りを持つことに繋がっていきます。その輝きを目にすることは、自分から逃げなかったこと
「神と一体の自分」に至る道は、自分というこの存在をすっ飛ばして全く違ったところから神なるものをインストールすることでは成就しない、と私は思っ