狂気への恐れと可能性
狂気は、ある種の自己防衛の形、あるいは逃避の要素があるんじゃないのかな~なんて思っております。だから、どこかで意識、無意識的に狂っていよう、
狂気は、ある種の自己防衛の形、あるいは逃避の要素があるんじゃないのかな~なんて思っております。だから、どこかで意識、無意識的に狂っていよう、
不安感に飲み込まれると、お先真っ暗なイメージで人生を捉えてしまいがちです。それを真実だと信じ込んで、それに基づいてあーでもない、こーでもない
いつも逃げてしまっていることに勇気を振り絞ってでも向き合えた時、その人は自分に尊厳を取り戻すのです。そして、自分を祝福できる。その辛さも、ち
プロセスを踏むというのは、日々少しずつ晴れやかになっていく自分を感じながら、希望を取り戻していく道です。決して、長く苦しい道をひたすら耐えて
自分で、自身の淋しさを感じ、孤独を感じ、恐れを感じて受け止められる自分でいたら、ちゃんと自分でそれらを癒していけます。何か外の物や人に頼る必
本来、私たちは自分の内側に答えを見出す力を自然に備えています。けれど、それがうまく機能しない状態になっているので、なぜそんな状態になっている
自分に嘘をついて真実を歪めて生きるには、自分自身を歪めて相当な無理をしなければそういうことはできません。苦しすぎるんですね。でもそれができて
本当に辛い気持ちを癒してあげられるのは、外野から「可哀想ね~」って他人事で言ってくる人ではなく、その痛みを自分のこととして受け止め、寄り添っ
なぜ気づけないのか。見ていないからです。なぜ見ていないのか?無意識にも見ていられない何らかの要因があります。だから、気づけなかった、次からは
ものの存在意義に対して礼を失する態度は、あらゆることに対して、粗末に扱ってしまう在り方につながることを戒めていたのではないでしょうか。物を粗