「識別する目」と「永遠のグル」
神やグルは、自分にとって都合のいい心地よい言葉ばかりを与えてくれるわけではありません。むしろ、心をえぐるような言葉を投げかけたり、憎しみを掻
神やグルは、自分にとって都合のいい心地よい言葉ばかりを与えてくれるわけではありません。むしろ、心をえぐるような言葉を投げかけたり、憎しみを掻
そういうやり取りを毎週続けていく中で、いつしかみなさんの中で起こる気づきが、私の願いをはるかに超えて深いものになっているということを、いただ
自分の中でこの恩寵を感じられているかいないかは、道なき道を行く私たちには、とても大きな違いになって来ると思います。逆に言えば、人生の霊性修行
真理を求め、自分に向き合う歩みはしばしば、古傷をえぐり、傷口に塩を塗るような何とも言えないプロセスを通過することもあり、容易ではありません。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、「私を覚えていることが恩寵である」と言いました。出会っても、すぐに忘れていく人もいたり、さっぱり覚えない人、
「このままじゃいけない自分」が、「このままでall OK」な自分だとするなら、どんな風に世界は変わるでしょうか。このままの自分で在ることの結
神の愛は、決して私たちが望むような形ばかりで表れるわけではないし、一見正反対と思えるような厳しい姿でやってくることもあります。その計らいに私
けれど、だからと言って本人の努力が全く無駄であるとか必要がないとは、私は思いません。内なる神に回帰しようとするとき、恩寵とともに在るのは確か
「避けている」というのは、ニュートラルなスタンスで特にそれに入り込んでいないという状態とは明らかに違います。私たちのとても自然で、神聖な側面
世界は既に私の知っていた、思い描いていたようなものではなくなっている。その思いが、何だか今自分が拠って立つこの世界の足元を心許なくさせるので