本当のところ、何を願っていたのか?
心の深いところでは嫌だと思っているのを感じているのに、頭でそれをねじ伏せて、「いや、そんなことではいけない」とか頑なに理想像に駆り立てていた
心の深いところでは嫌だと思っているのを感じているのに、頭でそれをねじ伏せて、「いや、そんなことではいけない」とか頑なに理想像に駆り立てていた
私は自ら進んで、あまり心地良くはない苦しみを抱え込んでいるのです。なぜそうする必要があるのだろう?と改めて問うてみると、どうやら私は、この世
シフトが起こるためには、自分自身の気持ちをしっかりと受け止めていることが大前提ということになりますね。じゃぁ、それをすればいいじゃん、って思
うまくいかないこと自体がギフトであるってことも、あるんですよね。でもその時はわからない。何で自分だけ?って思って、自分に失望したり、拗ねたり
人によって、人生の谷や山の時期はそれぞれあるでしょうが、どんなに辛い時期も、今、息ができるんだったらそれだけしてればいいからとにかく生きてい
そういう状況の中で、少しでも自分を支える力を、普段の積み重ねの中で養っていきたいものです。こういう力は、頭だけでは難しいですね。もちろん、何
でも本人はボーっとしていて自覚がないので、その状態が結構心地よく居着いてしまって、なかなか離れようとしません。ぬるま湯につかっている、という
つまり、自分の軸が取れていない状態で何か目先の理想像を実現しようとすれば、自ずから断片的な自分の切れ端を部分部分、力技でコントロールしようと
節目を大切にすることは、そうした死と再生を繰り返して続いていく永遠の命を大切にすることでもあると私は思います。古来、私たちの祖先は、そういう
道が見えないということもあるけれど、それは道がないということではなくて、まだ見つけていない道がどこかにあるということなんだと思います。それは