「魂の望んでいること」がわからないのは…
最初は自分がどこに向かっているのかもさっぱりわからないし、正しいのかどうかもわからないけれど、どんなにストレスフルな状況が差し出されてきても
最初は自分がどこに向かっているのかもさっぱりわからないし、正しいのかどうかもわからないけれど、どんなにストレスフルな状況が差し出されてきても
ほんの些細なことに思えても、実はその人にとっては思う以上に大変なことだったりするかもしれないのです。その時間と労力を使ってもらって、それに見
決めて宣言してるはずなのに、決め切っていない自分に気づいたり、ね。そういう自分だから、その現実なんです。違う現実に生きたければ、そうではない
ただ体を動かしていれば行になるのではなく、今ここで、意識をいかに使うか、というところに重要なエッセンスがある、とも言えそうです。そして、意識
現状に留まることが悪いわけではありませんが、それならそれで「現状に甘んじる」のではなく、覚悟をもって今を生きればいいのに、必ずしもそうではな
たまに、リーディングをしているときに、どんな風に見えるんですか?って聞かれることがあるのですが、ずっと前にも書いたことはありましたが、言葉で
純粋に、この自分と言う存在を表現して生きる覚悟。極限まで何か外からの不純物を除いた自分を表現すること。それは、並大抵のことではないでしょうけ
逃げ道を断つほどに、純粋な自分自身になっていきます。決断するために迷い、あらゆる可能性を吟味し、恐れに向き合い、ということをしている内に、自
動かずにいるというのは、一見、エネルギー不足に見えて、実はそこに留まるためにものすごくエネルギーを使っている状態なのです。ものごとは諸行無常
停滞したフィールドにいる限り、そこで想像することはクリエイティブなものとは対極の、恐れと不安に満ちた、退行するような考えになります。だから、