聞く耳を開くために、痛みを引き受ける
聞く耳のない人は、痛みを受け取ることを徹底的に拒否しています。それは損だと思って、絶対に損をしないぞ!と、自分の正義から降りようとはしません
聞く耳のない人は、痛みを受け取ることを徹底的に拒否しています。それは損だと思って、絶対に損をしないぞ!と、自分の正義から降りようとはしません
痛みに対して、恐れを越えて自分を開いてそこで起こってくることをただただひたすら起こるように起こさせていくと、自分の中で何かが変容していきます
淋しさを自分で支えられないから、自分のためにならない人間関係から離れることができず、自分を差し出してしまって他者にコントロールを許してしまう
どうせ叶わないから、行動しないのと、叶うように最善を尽くしたにもかかわらず叶わなかった、というのとでは、まるで体験の意味が違いますね。重要な
狂気というのは、正しく受け止められなかった感情のエネルギーが暴走した状態だと私は捉えています。つまり、狂った状態になる前のエネルギーの処理を
ちょっとした不調や病気一つとっても、それが発症した前後を注意深く見ていくと、それがなぜ起こったのか、気付くことがあるでしょう。心身の症状も、
自分では人一倍努力しているつもりだし、頑張っているのに深まっている感覚もなく思いつく限りのことをしてもダメだったのでそのテーマについてはいっ
何事も、取ってつけたようなイメージは薄っぺらくて嘘くさく感じるものです。存在全体でそれそのものを生きてこそ本物と言えるのではありませんか?あ
地獄の業火から脱出し、完全にその出来事を癒し、完了させるには、真実を生きる、というただその一点のみが救いの道しるべになります。どんなにそれが
実際にはあったのに、「無かったこと」になってしまった出来事の影響というのは、非常に対処が難しくなります。「無い」のだから、対処するものが存在