世の中には本当に素晴らしい才能を
持っている方がいて、天は二物も
三物も惜しみなく与えるのだな、
などと思ったりもします。
けれど、自分がそうなりたいか、
と言われると、全く興味が無くて、
今の自分も割と気に入っているので、
私はこの自分でいいや、というか、
この自分が良いな、と思います。
それでも、ちょっと前までは、
もっと貪欲に色々なことに興味を持って
学ばないといけないのかも、
と思って色々と学びに行ったり
したこともあったのですが、
結局身につかず、やっぱり私は
興味ないや、というところで
落ち着いています。
まぁ、これが私、なんでしょうね。
興味の範囲がとても狭い一方、
深く掘り下げるのは結構好きです。
その過程で勝手に広がっていく
ものもあり、そういう広げ方だと
割とすんなり無理なく入ってきます。
逆に言うと、そういう入り方でないと
私はちゃんと知識を自分の血肉として
落とし込めないようです。
あまり器用ではないので、
自分のそういう特性を知って、
自分に合ったやり方をしないと、
見当違いの努力をして疲弊し、
お金も労力も無駄に流れて行って
しまいます。
中には私と正反対に、
広く浅く多くのことに興味を持って
取り入れていく中で自分のスタイルを
確立していく方もあるでしょうし、
広く深く大きく知見を広げ、
誰にもまねできないような世界を
創造していく人もいるでしょう。
どういうスタイルが優れていて
これが劣っているとかいうのではなく、
みなそれぞれの世界観からしか生まれない
唯一無二のものがあります。
自分はどういう性質の器であって、
どういう伸ばし方をしたらいいのか、
よく知ることが大切だと思います。
そういうことを知っていくのが、
自分に向き合う作業で、
方向性を知るだけではなく、
何が苦手と感じ、何が好き、
あるいは苦も無くできるのか、
などを詳細に知るわけです。
短所があるが故に、
長所が人並み外れて発達している
ということもありますし、
長所が際立っているが故に、
弱いところが伸びなかったり
欠損しているケースもあります。
長所と短所は裏表なんですよね。
なんでもかんでも、
努力すれば壁が越えられる
わけではないのです。
どれだけ努力しても、
越えられない壁はあります。
これは、厳然とした事実です。
それを認められたとき、
理想とは違う自分を生かす道を
模索し始めます。
こうでなければならないとか、
こう在るべきという価値観の壁を越えて
唯一無二の自分を創造していく
道が開けていくんですね。
だから、ある意味、
社会が提供している何かの枠に
うまく順応できている内は、
そういう道は開けないかもしれません。
まぁ、枠の中でこそ伸びる
才能もあるかもしれませんが、
本当に自分自身に正直に、
真剣に向き合っていたら、
人はどこかで必ず、その枠を超えて
唯一無二の自分を創造していく
チャレンジに駆り立てられる
ものなんじゃないかな、と思います。
特に、今の時代はね。
本当に自分を生きることを自身に許し、
その道を一人行く孤独に耐える中で、
出会っていくもの、わかってくることが
あります。
そういうものが、
自分を本当に生きる力になり、
自分とは何か、世界とは何かを知る
基盤になっていきます。
そういうことを問いながら生きることの
豊かさを知ることで、人生はぐっと深く、
味わい深いものになりますね。
孤独の中で本当に一対一で
自分自身に、世界に、神に
向き合うことのない人生の、
何と味気ないことでしょう。
一人になること、孤独になることは、
恐ろしいことでも、惨めなことでも
ありません。
それらを通して、
自分は常に一人ぼっちではないことを
理屈を越えて知る、豊かな時間なのです。
誰かよりもうまくできない、
これしかできない、これだけができる
という凸凹のこの自分で生きて行く。
恐くても、うまく行く公算が立たなくても、
結局そういう生き方しかできない、
という道に踏み出した時、
あれこれ頭で考えて、今までのやり方の
範囲内でどうにかする以外の在り方が
動き出します。
自分のエゴではどうにもできない
ところに来ると、やっと人生に
別の力が働きだすんですね。
そうなると、否応なく
そういう力を受け入れざるを得ないし、
それと対話せざるを得なくなる。
そうやって、たくさんたくさん、
今までの凝り固まったやり方、
しがみついたものを手離していきます。
恐いかも知れないけれど、
恩寵ですね。
自分自身に帰っていく道。
ひたすら自身の真実にのみ
忠実で在れ。