本日の瞑想会、まだお席はございますので
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さて。
人間、困難な時の方が必死になるし、
自分の持っている可能性を総動員して
その状況を乗り切ろうとするので
ぐんっと成長できる部分が
確かにあるなと思います。
そういう状況でなくても
成長はできるのですが、
人生の冬の時期と盛夏の時期の成長は
質的にも大分違ったものがありますよね。
それぞれの時期を楽しみ、味わいながら
過ごしていければいいのですが、
新たな可能性の開発という点で見ていくと、
困難も解消してそこそこ落ち着いて
過ごせている時期というのは
難しいな、と逆に思うときがあります。
もちろん、困難を乗り切って
やっと訪れた平穏を味わって緩むことも
大切だし、常に緊張し続けるのは
それはそれで問題もあります。
休むときはしっかり休んで、
緩めるときはしっかり緩めるのが
基本です。
そういう時期に、
その前のタームで成長した部分を
自分の中に落とし込んでいくわけです。
そして再び、次の成長に備えるのですね。
この様々な要素を自分の中に落とし込む
というところで、それがどれだけ
本当の自分の血肉になるのかというのが
決まると思うのですが、
それまでの歩みを総括し、
シフトアップした自身の輪郭を
アップデートします。
成長した自分だからこそ、
今までわからなかったこと、
見えなかったことが見えてきて、
次の課題もまた出てくるでしょう。
そういうところに、
自分で気づけるかどうかが、
多分その人のその段階での実力であり、
成長していく力の大きさなのだろう
と思います。
逆に言えば、
さらに繊細に、大きく広くなった視野で
今までと何も変わらない世界しか
見えないのなら、その人の成長は
そこで停滞してしまいます。
自分を磨き続けるというのは、
知ろうとし続ける、その意識によって
導かれる動きなのだろうと思います。
だから、もうわかった、と思えば
それ以上には見ようとしないし、
これはどういうことだろう?と
疑問を抱ければ、さらに探求は続きます。
長い人生の中では、
ときに探求に疲れてしまうことも
あるかもしれないし、
絶望し、諦め、放棄して放浪する
こともあるかもしれません。
あるいは、
長い停滞で苦しみ抜き、
息も絶え絶えにただ息をして
命をつなぐことで精いっぱいの
時もあるかもしれません。
それもそれ。
あんなに輝いていた自分だったのに、
こんなになってしまった、と
失望することはありません。
それもまた、紛れもなく自分の一部です。
輝いていた自分が本当の自分で、
落ちぶれ堕落した自分は自分ではない
と思ってしまう人もいますが、
そういう自分をどれだけ直視し、
対峙できるのか、そういう懐の深さ、
慈悲を学ぶ時期なのでしょう。
輝く時期には輝きの中で見るべきものが、
厳冬の時期には、深い闇の中でのみ
知ることのできるものがありますね。
また、淡く柔らかい靄の中で
非常に高度な学びがあるときもあります。
人生のそれぞれの時期の学びを
丁寧にマスターして、
どんな状況でも自分のこの人生から
離れずにいられることこそ、
達人への道なのかな、と思います。
私などは、停滞期の過ごし方が
まだまだうまくないな、と思うのですが、
そんな時にすごく支えられている
と感じるのが、日々のサーダナ(修練)です。
どうしてもやる気がわかないときとか、
気持ちが落ちるときでも、
最低限の日課としてやるべきことがあることで
戻るべきところを指示されているようで、
つなぎ留められている感じがします。
マックスではできないけれど、
ほんの少しでもできることをできるだけやる、
ということが、命綱になっていると
つくづく感じます。
調子の良い時はマックスでチャレンジ
すれば良いし、そうでないときは
途切れないようにつなげていくという
力の使い方がどこまでできるか、
試されているようでもあります。
途切れさせたら、そこまで、ですからね。
人生の様々な状況で、
多様な能力が鍛えられていくものですね。
がつがつやるばかりが修練ではありません。
そういう意味で、地味な積み重ねが
丁寧にコンスタントに続けられる力こそが、
その人の本当の実力なのでしょう。