仕事でもお稽古事でも何でも、
次の段階に上がろうとする時、
今のままの自分ではどうしても
上がることが出来ない、ということが
あったりします。
もっと別の何かが身に着いたり
出来るようにならなければ、
その段階の諸々を体現して生きることが
できないのです。
それは、一見、今までの延長線上に
在るように見えるのですが、
単にその路線を伸ばしていけばいい
というわけではなくて、
もちろん、今まで積み上げてきたものも
大事なのだけれど、
それとはまったく違ったロジックを理解できないと
解けないパズルのようなものです。
だから、その段階に来ると、
もう一度自分が積み重ねてきたものを
解体して、精査し、達成しようとする形を
実現するためにまだ不足していたり
見つけていないパズルのピースを
見つけ出していかねばなりません。
そういう作業のときに、
それまでの段階がどれだけ自分の中で
練られ、本当に血肉となって
身についているかが問われるのです。
そういう段階をすっ飛ばして、
その先には行けないのですね。
ときにそのステップは、
本当にわずかな段差に見えて、
その裏に膨大な作業量を含んでいることもあり、
その差をクリアするのに何年もかかることも
あります。
そういう段差をたくさんたくさん
クリアしてきた人が、
達人と言われる人たちなのでしょう。
本当にすごい人をすごいとわかるのも、
一見大したことがないと思えるような差の
裏にある膨大な何かを見て取ることが
できるからであり、
その裏にあるものが見えなければ、
その達人のすごさは全く気づけないでしょう。
そういう意味で、
自分がどれだけそういうものを
見て取ることのできる目を
養えているだろうか、と
我が身を振り返ります。
本当にすごい人は、
まぐれ当たりのような奇跡ではなく、
その裏にある膨大な積み重ねたもの故に、
そう簡単に崩れ去ることはありません。
ただの波と、津波の違いのように、
同じ高さでもそこに宿るエネルギー量が
圧倒的に違う構造をしているからです。
成り立ち自体が違うんですね。
上を目指すには、
ぐっと深く根を張る必要があります。
上に見えるものを支えるだけのものが
必要だからです。
上を十分に支えられるだけの下が
充実したら、上は自然に伸びていきますし、
滲み出るものも変わってきます。
だから、綺羅を飾るのも良いけれど、
説得力を持ってその綺羅をこなせないと、
却って陳腐に見えてしまいます。
身の丈を知った在り様を知ることが
大事なんですね。
自分に深く向き合って、
今の自分の限界を知り、エッジを知る。
そしてそれを越えるために、
まだ使えていない自分の可能性を掘り起こす。
見えていない領域を見て、それに触れ、
試行錯誤しながらマスターしていく。
それが、自分自身との対話です。
自分を知るほどに、他者を知り、
世界を知るようになります。
そして、
自分自身の内側を探求して得たものは、
外側にも同様に使い、展開していく
ことができます。
そのようにして得た智慧は、
自分と外側の世界が分離しておらず、
自分の血肉になって、さらにこの世界を知る
基盤となっていくでしょう。
自分自身を知るほどに、
内側に在る不調和やほころびに
気づくようになり、そこに適切に対処
していくようになります。
そういうことを繰り返して
人生は有機的に整合性を持って統合され、
そうなって初めて開く領域の扉もあります。
だから、自分の中のノイズがどこまで
クリアになっているかで、
同じ場所に生きていても、
自分の体験する世界が違うのです。
深まるほどに、かつては解けなかったパズルが
解けていきます。
かつてのレベルでは、どうやっても
解くことが出来なかったのは、
必要なピースをまだ手に入れてなかったから
なんですね。
細菌による病気を発見できても、
ウイルスによる病気は克服できなかった
時代のようなものです。
自分の中で、様々な技術が習熟していくにつれて
その他の部分もそれにつられて引き上げられていく
ところはありますよね。
そういう積み上げ方をしてきている人は、
他の分野のことでもそのエッセンスを見抜いて
自分なりに深く理解する知性があります。
異分野同士の達人が
互いに通じるところがあるのは
別のやり方で、同じエッセンスを
極めているからだと思います。
人それぞれ、今自分の居るところから、
自分のやり方で問い続け、
歩みを重ねていきましょう。