近頃、自身の在り方をものすごく問われているな~と感じているのですが、そのせいか私の現実の中で「天命」というキーワードが頻繁に現れるようになっています。それまで自分でも気づかなかったのですが、私はこの言葉に無意識に恐れを抱いていたということについ昨日、気づいてしまいました。
これまでブログでも「使命」や「ミッション」といった言葉を使ったことはあるのですが、これらも含めて、私自身はそれらにあまり触れたくないというか、関わりたくないという消極的な気持ちがありました。
それはとても大切なものだという自覚はあるのですが、注意深く避けていたのですね。
なぜ触れたくなかったのか、掘り下げてみると、それは「役割」というキーワードに関連していました。これまで、色々な方から「あなたのお役目なのですね」というような言葉を何度もいただいたことがあるのですが、私にとってそういう言葉は何とも居心地の悪いものでした。
全体の中で自分のポジションが固定されてしまうような息苦しさが浮上してきて、「そんな風に決められなくない」と、逃げ出したくなってしまうのです。
けれど、お役目というのは本当はそういものではなく、自分を活かし、守ってくれもする大切なビジョンです。頭では分かっているのですが、気持はどうにもならないので、私はいつも自身のミッションから注意深く逃げてきたのでした。
一方で、自分の中でのことには積極的に責任を果たそうとしてきましたから、これはこれで、自分なりにとても成果のあったことだと感じています。けれど、ここに来てその責任の範囲を全体の中の自分にまで広げていかなければならない段階に来たのでしょう。
誰しもが自身の天命に本気にならなければ生き残ってはいけない時代だと、昨日ご紹介した「子孫へのラブレター」の井上祐宏氏はある動画の中で言っていましたが、なるほど、確かにそういう実感はあります。
頭では分かっている。でも心の奥底がそっぽ向いている、という自身の状態と向き合いながら、「私は自分の天命を受け入れるのか。逃げ続けるのか」とじっと問うていました。
答えは、受け入れるしかありません。けれど、抵抗があるので自分が何を恐れているのか、もし受け入れてしまったらどうなっていくだろうか、という部分をさらに感覚でじっと辿ってみました。
もし受け入れたら、ものすごく大きなエネルギーが動いていく。私が天命を生きるのではなく、天の命が私というアイデンティティを生きるようになっていく、という感覚がありました。
そんなにうまくいくだろうか?そんなエネルギーがあるというのは本当か?という恐れから来る疑問に対して、私は自身の奥深いところで今にも噴き上がろうとするマグマのような天命のエネルギーにフォーカスしました。
そうして、どうなるか分からないけれど、とにかく自身の天命を生きようと心を決めたとき、自分でもまだそれほど深いコミットメントには思えなかったけれど、私の深いところではその言葉をずっと待っていたのか、自分の感情とは違うレベルでこみ上げるものがあり、覚えず涙していました。
自分だと思っているこの私ではない「別の何か」が泣いているような、不思議な感覚でした。
そして、自分の底の方で捻じれていた軸がぐぐぐっと修正されて行くような感覚が続いて起こりました。すると、それまであまり力が入らなかった足の先の方に、しっかりと力が満ちて大地を踏みしめられるようになっていきました。
丁度そんな変化が起こっていたとき、ふとスマホを見るとメールが届いていたので確認すると、先月注文して入荷が遅れていたルドラークシャのマーラー(数珠)が入荷し、本日発送する旨のお店からの連絡でした。
なんとも意味深なタイミングでのメールに、きっとことマーラーは私が天命を生きるのを助けてくれるためにやって来るのだろうと思いました。
また、つい先日ご縁があって私のところにやって来てくれた立体のシュリーヤントラがあるのですが、その最初の礼拝を金曜日にやる予定なので、早速このマーラーで礼拝を始めようと思います。
こうした霊的な品物が次々に私のところにやって来てくれるということはそれだけでもとても有り難いことですが、タイミングがタイミングだけに、天が「志を立てなさい」と猛烈に背中を押してくれているのだと受け取りました。
恐れ多いというか、こんな自分に何ができるのかという卑屈な思いに飲み込まれないよう、絶えず絶えず自分を奮い立たせていかなければな、と気持ちを引き締めています。
天は、苦しい時ほど私がどう在り、何を選択するのかをじっと見つめ、常に励ましている、ということと、新たな節目を感じた一日でした。