感情解放のワークを続けて自身に向き合っていると、想像もしないようなものが出てくることがよくあります。先日もふとしたきっかけから、「ひょっとして、私は喜びの感情を抑圧してるかも?」ということに気づいてしまいました。
ネガティブな感情を抑圧するのはよく見かけますが、喜びなどのポジティブな感情を抑圧することも、理屈から言えばないわけではありません。
以前から私は喜びの感情がほとんどなく、穏やかな気持ちでいることはあるものの、それ以上にポジティブな気持ちになることがありませんでした。
これまで、かなりいろいろワークしたりヒーリングを受けてきてもこの状態なので、まぁそういうものかと落ち着いてしまっていたのですが、先日、とてもポジティブな感覚になっている友人たちに囲まれて、ある種の恐れを感じている自分に気づきました。
その時私は、確かに「恐い!」と思っていましたし、逃げ出したいような気持ちもどこかにあったと思います。それでようやく、私は喜びを抑圧しているのだと気づいたのです。
なぜそんなことをしているのか、世の中の人たちは喜びを感じたくて色々行動しているのに、と自分でも不思議でしたが、喜びを恐れる気持ちを辿って行くと、すぐにその理由が見えてきました。
魂の旅路のどこかで、私は喜びの絶頂で絶望の恐怖を味わったことがあったようで、私の中には「喜びは暴力だ」という思いがしっかり入ってしまっています。
だから深い喜びを感じるとき、いきなり絶望の淵に突き落とされた痛みの記憶がトリガーされ、恐れでガチッと固まってしまうのです。
身体の中には、喜びの絶頂で絶望を味わった衝撃がまだそのままそっくり残っていて、まるでドラキュラのように胸を杭で打ち抜かれたような感覚がありました。そしてそこから命が漏れ出すように、力が抜けていきます。
そうした感覚をしっかり身体で捉えながら、いつものごとく命のエネルギーを呼吸によって送って行きましたが、受け止めながら、こんなものがあったら素直に喜びを感じられないのも道理だ、と納得していました。
杭が突き刺さっているような喜びの感覚を辿ってみると、あるところまで行くとそこから先は進むのが辛いというか、思い出すのも辛いというような感覚になりました。
ただ、フォーカスをブラさないようにして命を送り続けていくと、少しずつ弛んでいく感覚はあったので、少しずつ丁寧に進めていきました。
これがあるが故に、私の中では「幸せ」というのは当然与えられる権利とはどうしても感じられず、逆に、当然私には無いものという前提で、自分で何とかしなければいけないというスタンスになっていました。
幸せがまさに実現するというその瞬間を、ひどく無残なやり方でつぶされてしまったので、「私には最初から幸せは与えられていないのだ」と思ってしまったのです。そこで、その思考の直前に生じていたはずの気持ちまで戻って、これを捉え、受け止めてみました。
ワークの大切なポイントとして、思考と感情の区別がつくということが重要なのですが、思考の直前には大抵、何らかの感情が浮上していることが多いです。なので思考が浮上した時は、その直前の感情を捉え、これを解放していくことで思い込みの思考自体が外れていきます。
「私に幸せは与えられていない」という思考の前には、身体の中心軸をズンと突き抜けるような衝撃と脱力感、失望と悲しみなどがありました。これをゆっくり受け止めていったわけですが、身体の中心軸から、様々なバイブレーションのエネルギーが段階的に抜けていくのを興味深く眺めていました。
長く人間をやっていると、色々なものを抱え込むものですね。そうして抱え込んだものをひとつひとつ手放して元の身軽な身になっていくのは、まさに祝福のプロセスのように感じます。
なぜそう感じるのか分からないのですが、お祝いの感じなのです。
ポジティブな感情の抑圧も、ネガティブな感情の抑圧と同じくらい深い学びをはらんでいます。今回取り組んだ喜びの感覚の抑圧は、絶望の感情とガッチリ絡み合ってしまっていたため、気づきにくかったり解放が複雑になってしまっていましたが、丁寧に読み解き、ほぐして行けばちゃんと道筋はついて行きます。
そこそこのボリュームがありそうな感じなので、少しずつ取り組んでいきたいと思います。