先日、ある方との話の中で、「目覚めるためには、この人生が苦しいから目覚めたいとか、もう二度と生まれ変わるのは嫌だと思っている内は目覚められない」という話が出ました。
これはたびたびレナードも言っていることで、私も感情の基本的性質「拒絶したものは繰り返し差し戻される」という法則の通りからしても、その通りだと思います。
その方は、今では生まれ変わるのもOKだと思えるとおっしゃっていたのですが、一方の私はどうだろう?と自身に問うてみると、「どっちでもいいかな」という感じでした。
積極的にOK!というわけではないのですが、まぁ生まれ変わってもまたこんな風に楽しいことも苦しいことも、魂の琴線に触れる素晴らしいこともあるのだろうと思うし、苦しみを生きること自体、その受け止め方も分かるようになったので、別に拒絶はしない、というくらいのものです。
神が私に新たな人生を与えるのなら、甘んじて受けよう。その中で、これまで体現できなかった新たな何かを体験していきたいと思いました。また、今世で終わりだよ、と言われれば、それも良しです。
まぁ今世はまだ終わってないので、この肉体の時間が終わるまで、まだ体現していないものを追い続けていくのでしょうけれど。
「苦しみ」は、今生の私の人生のテーマの一つでもあるように思います。喜びとか楽しさといった側面よりも、私はなぜか「苦しみ」に惹き付けられます。
幸せを追い求めるのが人生のテーマであるなら、もっとポジティブな側面に意識を向けるべきだという声もあるだろうと思います。
が、苦しみを置き去りにして、どうしても私はポジティブと呼ばれる側面に意識を向けることができませんでした。その結果、深くそれに向き合うことになったのですが、だからこそ触れることのできたものもたくさんあったし、それも意義あることだったかな、と思っています。
レナードは私たちがプレゼンスに在るとき、私たちは愛そのものであると言います。であるなら、苦しみの中に在ろうと喜びの中に在ろうと、愛や幸せを探し求めて彷徨わなくてもいいだろうと思いました。
そのまま、愛として苦しみを生きればいいと。
まぁそのためには、苦しみから身をよじって逃げてしまうようなスタンスではダメなのでしょうけれど。だからこそ、深く深く「逃げてしまう自分」に向き合っています。
苦しみに向き合うときは、必然的に深く恐怖に触れていくことになりますが、別に恐怖を抑圧する必要はないのです。怯える自分も在るがままに見て、そこに自身が寄り添えばいいだけです。恐怖に慄くことや、怯えて固まってしまうこと自体、何の問題もありません。
そういう自分を、責めることは無いのです。
そんなことを書いてきて、そういえば最近、「こんな自分じゃダメだ」という責める思いが繰り返し湧いてきていたなぁと思いました。
去年からある習い事を始めたのですが、その先生に向き合うとき、嫌というほど自分のダメさ加減があぶり出されてくるのですね。
私の在り方のすべてが否定されているように感じられて、どうにも苦しいので今は少しその先生とは距離を取っているのですが、自分の自身に対する在り方がその先生を「鏡」として映し出されているのでしょう。近年にはなかったような、結構強烈なインパクトがあります。(^^;
なぜこんなにも自分を責めているのか注意深く見ていくと、エゴはとにかく「思うようにならない現状はマズイ。これをすれば現状を改善させることができるだろう。だからやらなければならない」と考えていますが、そもそもこの方程式自体、真実ではありません。
翻って、その先生から私を見たら、どう見ても落ちこぼれで救いようがない問題児のように見えるんだろうな、と私は勝手に思ってしまうのですが、これはエゴが私を見る視線なのです。
この目線で見る限り、エゴは「上手くいかないのはお前のその態度のせいだ!」と私を責めざるを得ないでしょう。
この硬直状態を脱するには、視点を変えるしかありません。「このままじゃいけない自分」が、「このままでall OK」な自分だとするなら、どんな風に世界は変わるでしょうか。
このままの自分で在ることの結果もすべて引き受けた上で、OKだとしたとき、問題だと思えたすべては、本当に気づきをもたらすために神が私に与えたギフトだと感じられました。
今まで頭で何度もそう考えたことはあったけれど、今回はまさに神が気づきを促している実感があったのです。
私はこれを受け取ることを徹底的に拒絶し、改善すべき問題点だと思ってきたのですが、本当はただ受け取ればよかっただけだったのですね。
その視点で神から差し出されたものを受け取った時、人生は本当に恩寵に満ちていて、世界は私を剋するようにあるわけではないのだと感じることができました。
また、苦しみの奥深くに神の愛を見つけることができました。こんな正反対に思えるようなものの中で神聖なものに触れるのは、私にとっては得難い喜びなのです。