今回のリトリートの考察はまだまだ続いているのですが、最終日に大きな解放の糸口をつかんだとは言え、なかなかプレゼンスに居られなかったことは大きな反省点です。
レナードや他の方にも指摘されたことではありますが、期待を抱いてしまったことが私をプレゼンスから遠ざけてしまった要因です。
エゴは、「もっともっと」と「今ここ」にはない何かを求めて最もそこに居なければならない場所から私たちを誘い出します。「今ここで満ち足りて在る」というのは、まだ私には難しいことでした。
私は何かを掴まねばならないと力んでいましたが、プレゼンスに在るには、レナードがいつも言うように「Just relax!」なのです。
けれど私はまだプレゼンスを本当に信頼できてはいません。頭では分かっているけれど、魂の奥深くにはいまだ神への憎しみや恨みが残っていて、容易にプレゼンスに委ねることができないのです。
レナードに、私が「神は私を見捨てる」と訴えたとき、彼はそれを否定することなくいともあっさりと「その通りだ」と答えました。そのことで私はさらなる絶望の淵に突き落とされるのですが、確かに神は私たち人間が都合よく解釈するような、愛と光と慈悲だけの存在ではありません。
巷に溢れる「スピリチュアル的なもの」の多くは、神を愛と光の存在だと捉えています。けれど、レナードはそれではバランスを欠いている。「神は光でもあり、また闇でもある」と言います。この言葉に私は深く同意します。
私が自分自身に向き合ってきた中で触れた神は、確かに光でもあり闇でもあったし、そうでありながらそれらも超えた圧倒的な愛そのものだったからです。
自身の闇に深く深く降りていくと、常にそこには想像だにしなかった鮮烈な光と愛がありました。だから私は闇を恐れません。闇もまた、愛であることを知っているからです。
神は、私たちが目覚めていくためには、敢えて地獄の底に突き落とすようなこともするし、見捨てたり、責めたてたりされたと私たちが感じるような状況に追い込むことさえ厭いません。
人間目線で言えば非情とも言えるような仕打ちを通過させることでその人が目覚めるのなら、神に一切の妥協はありません。たとえそれで魂がボロボロになって数千年の間、闇を彷徨うことになったとしても、です。
けれど、そうしたプロセスの中で私たちはもがき苦しみながらも、あるタイミングでそこに絶え間なく流れ続けている恩寵に触れる瞬間がやってきます。
最初は微かに。やがて抗いがたい力強さでもって、それは私たちを再び神の腕の中に引き戻していきます。自分でもその力が何なのか説明もできないままに、神の呼びかけは強く、深く私たちの魂の奥底に眠っていた何かをゆっくりと育てていきます。
そのとき初めて、私たちは自身の辿ってきた気の遠くなるような深い闇が、いかに恩寵そのものであったのか、否定のしようもなく真実を肌で知るのです。
今、私は神への積年の恨みと憎しみを吐き出しながら、同時にどこか自分の深いところで神の愛という基盤にしっかりと足を付けている自分を感じています。不思議なもので、神を憎めば憎むほどに、神の懐に帰っていくのを感じているのです。
これまで私は、レナードに憎しみを浮上させられそうになっても、ショックや悲しみ、戸惑いや絶望を感じても、憎しみを意識したことは無かったかもしれません。怒りは確かにあったと思いますが、「くっそ~、レナードめ!」と口では冗談めかして言ってはいても、憎しみには触れられていませんでした。
憎しみを否定していたつもりはありません。それは自分の中に在っても問題ではないと認識していましたが、あまりに憎しみのエネルギーのボリュームが大きすぎたので、これを生きてしまっては身体がもたない、と思った部分はあったかもしれません。
実際、解放に取り組んでいても、膨大なエネルギーに身体がへとへとになります。こんなものを抱えながら、長いこと生きてきたのですね。
理不尽に妻子を殺された男性、戦争で故国を失った男性、激しい拷問の末に磔になって干からびている干物のような物体。たまに、ワークをすると自身の奥底から、まるで地の底から響いてくるようなうめき声が出てくることがよくあったのですが、なるほどそれは彼らのものでした。
神が憎い。許せない。
そう呪った彼らの痛みを、少しずつ受け止めています。
最初の頃よりは、大分彼らのいるところが明るくなってきて、透明で清浄なエネルギーが満ちてきているような感じがします。
これほど深い憎しみと恨みの底にも、恩寵が満ちているというのは、何と言う救いでしょうか。これは、頭で分かっているだけではダメです。実際に自身の闇に触れ、そこに確かにそこに在る恩寵に触れるまでは、決して「神は光であり闇でもある」ということの真意を理解できないでしょう。
ふと、このブログのタイトル「しろいはね くろいはね」の由来となったビジョンのことを思い出しました。このビジョンは、私がヒーラーとしての勉強を始めたばかりのごく初期の頃、突然見えたものでしたが、この道を歩み初めてすぐに、神の本質が示されていたのだな、と思い至りました。
プレゼンスに深く根付くには、あらゆる無意識に沈んだものを浮上させねばならない、という原則を、今改めてしみじみと感じています。このことには、この言葉で表現された以上のことが含まれており、全てのプロセスは完全に恩寵とともに在ります。
それを実際に体験するほどに、私たちはプレゼンスを深く信頼し、委ねていくことができるのでしょう。