感情解放のワークで、みなさんがしばしばつまづく場面があります。それは、感情に向き合ったときに、新たに別の感情が浮上したことに気づかず、それに飲み込まれてマインドに入ってしまっているケースと、どうしても受け入れられない選択を前に、ガッチリとはまってしまっているケースです。
前者は、ワークをしていると非常によくあるパターンで、たとえば、深い悲しみを受け止めようと向かっているときに、それに触れてしまうことを恐れる気持ちが出てくることがあります。
本当にあの悲しみを生きてしまったら、自分は泣き崩れてしまう、立っていられない、日常生活が送れなくなってしまう、それは困るし、そんなことになるのは恐ろし過ぎる、という具合です。
こういう場合、さらに掘り下げていきます。
泣き崩れ、立っていられなくなって日常生活が送れなくなってしまったとしたら、それから自分はどうなるだろうか?と問うて行くのです。すると、廃人のようになって、抜け殻のような人生を送るとか、悲しみのあまり死んでしまうなどといった答えが返ってくることがあります。
人によって様々なストーリーが出てくるのですが、実はこの「きっとこうなってしまうだろう」とイメージで出てきたストーリーというのは、過去世で体験していることだったりするのです。
つまり、その人は過去世でとても悲しい体験をして、それに耐えきれずに抜け殻のように生きた人生や、死んでしまった人生を既に体験しているということなのです。
実際にここまで掘り下げると、確かにそういうことがあったような気がする、という感覚を多かれ少なかれ身体と心で確信する方が多いです。
魂の記憶にそういうものがあるので、その人は深く悲しむことを恐れているのです。また廃人のようになったり、死んでしまってはいけないと、無意識にもブレーキをきつく踏んでいるわけですね。
なぜ自分がそこまで悲しむことを恐れているのかという理由が分かると、迎えに行くべき自分自身のカケラが明確になります。すると、大抵はその打ちひしがれている自分を迎えに行けるようになります。
原因を知るということは、そういう意味でも大切なことなのですね。
私たちは、過去世の記憶をしばしば今世に引き継いで、その課題を無意識の内に受け取ってもがいていることがよくあります。
無念さや悲しみ、怒りや恨み、惨めさや絶望の中で亡くなった場合、死の瞬間に抱いていた感情を種として魂の中に持って行きます。そして、その種を持った魂が、次の人生を始めるのです。
肉体は新しくなり、すっかり境遇の違った人生が始まりますが、魂の中に在る未完了の感情の種は、それを味わった人生の記憶とともに、時間を止めてそれが癒されるまで、ずっとそこにあります。
どれだけそれを否定し、拒絶しようとも、その未完了のエネルギーは完了を求めて私たちの人生に表れ続けるだろうと思います。
バーナテッド・ロバーツやアジャシャンティ、ジム・ドリーヴァーなど様々な目覚めを体験した人たちの本を読んでみると、目覚めた後もなお、離婚や病気、財産の喪失、裏切りなど様々な厳しい状況を経験している生々しい記述を目にすることがあるのですが、それはきっと、未完了のエネルギーが完了に至る動きの表れなのでしょう。
ワークの中で、どうしても受け入れられない選択を前にガッチリとブレーキを踏んでしまうときも、過去世での体験と無縁ではないと思います。
なぜなら、過去に何も痛みを伴う体験が無いのだとしたら、そこまで拒絶する理由はないからです。私たちは、全く未経験の、知らない体験をそこまで恐れることはあり得ません。ラマナ・マハルシが「恐れは過去の痛みの体験の記憶」という通りです。
そういう状態の時、ある程度はそれに対する恐れを和らげるテクニックを使ってより受け入れやすい状態にもっていくことはできますが、最終的なところは、その方自身の選択になります。
魂が何度も同じようなテーマを繰り返すのも、きっとその人生では未完了のエネルギーが完了に至る選択をすることができなかったのでしょう。
この「どうしても越えられない壁」を越えていくときに、人生や世界をより深いレベルで見ていく霊性が、深く成熟していることが大切なカギになっているような気がします。
どうしても表面的なレベルや人間目線の善悪のジャッジメントに縛られていては、見えてこないものがあり、私たちの魂は、そうした自身を縛る様々な制約を超えて自由になることを望んでいるような気がします。
その願いを実現していくプロセスで、私たちは必ず、自ら神に触れていく体験をするでしょう。それなくして、本当に人生を宇宙に委ねることはできないし、本当に自身の命を生き切ることはできないと思うからです。
私がお伝えする感情解放のワークは、まさにその流れのプロセスを意識しています。
だから、単に抑圧された感情を解放して終わりなのではなく、その先に始まる広大深遠な霊性の旅の準備でもあるのです。