4月に入り、ふと気が付けば、レナードの清里リトリートまであと3週間を切っていました。師に会える数少ない機会なので、十分に準備して臨みたいと思います。
そんなこんなで久しぶりにレナードの動画を見てみたのですが、一番シンプルなこの紹介動画を今改めて見てみると、彼の教えの本質が表現されていて、その深遠さに様々な思いがかき立てられます。
6年余り彼の教えに触れて来て、本当にシンプルなのだけれど、その神髄はどこまでも深遠で、難しい、といつも思ってしまいます。
「難しい」と思うのはエゴなのでしょうが、そう思いながら、同時にその言葉に貼りついた様々な感情が浮上してきます。
今回のリトリートで、私はどこまで彼のプレゼンスへの招待を受け取れるだろうかと、自身の内側のコミットメントがどのレベルまで響いているのか、確かめています。
すると、まだガッチリとブロックが入っていて、強烈な抵抗がありました。これまでも何度も彼に相対するときに常に浮上していた抵抗でした。一体これは何だろうと見ていくと、自身の無能さ、惨めさを受け入れることへの拒否感でした。
みんなが普通にできていることが一人だけできなくて、取り残されているような感じ、そしてそれを人に知られることへの恐怖があるようでした。けれど、そう気づいただけでふっと弛むものがありました。
そして改めてもう一度レナードに向き合って見ると、無能さから来る絶望感や惨めさは消えていましたが、プレゼンスへの招待をどうしても受け取れない自分がいました。
その招待を断っているというよりは、どちらかというと「私には道は開かれていない」という感覚で、ぐっとその場に根が生えたように動けなくなっている感じです。
それでも、今度こそは明確に招待を受け取ろうと強く意識すると、ふとまた別の感情が湧き起こってきました。
他の人は、優しく包み込まれるようにサポートされながら歓迎されるのに、私のときはそれはなくて、自分で必死でつかみ取らなくてはいけないのだな、という淋しさのようなものが浮上してきたのです。
なぜこんなにも違いがあるのか、と思ったときに、多分私はどこかの過去世で、師に背いて去って行った経緯があるので、自ら戻る意志を明確に示さなければならないのだろうと、そんな気がしました。
どうして私だけこうなんだろう?差別されているのかと思うほどのことにも、人それぞれに背景があるのでしょう。
そう気づいたので、自分だけ冷たい待遇をされているような淋しさの中で、それでも師の招待を受け取る、という意志を表明したら、胸の辺りにガッチリとはまっていたブレーキの感覚がす~っと外れていきました。
この状態で改めてレナードに向き合って見ると、最初の時と比べて、距離感がぐっと近くなっていました。当初は、慕ってはいても、本当に冷たいというかよそよそしく感じていたレナードが、随分と温かく感じます。
彼は何も変わっていないのに、私の中が変化すると、これほど感じ方が変わるのですね。
リトリート前に少し解放できてよかったです。そうでなかったら、また砂を噛むような苦しみの中、悶々としていたでしょう。
とは言え、さらに彼の動画や画像を見つめていると、湧き出てくるものはあるので、どれだけコミットしてコミットして、覚悟を繰り返していても、深まっていくものの中でずれている部分、弱い部分、誰かや何かを批判して逃げているところがどんどんあぶり出されて行きます。
今まで、レナードを師と仰ぎながらも逃げ続けていたところ、一番嫌なところを、この機会にしっかりあぶりだして、向き合っていくことにします。
私たちは目覚めたい、解脱したい、悟りたい、ワンネスに至りたいと願いながら、自分でも気づかぬうちに、どれだけそれに抵抗しているのでしょうか。
自身の認識と実際とのずれにいかに注意深く気づき、それを軌道修正する不快さに耐えてコミットメントを深めていけるかが、究極の願いを実現させる道なのでしょう。
リトリートまであと18日。できる限りの準備をして臨みたいと思います。