近頃は地球のバイブレーションも日増しに上がっているので、今までそこそこ保っていた表面上の平穏がどっと崩れて、埋もれていた爆弾がさく裂!という方も少なくないようです。
けれど、それもちゃんと起こるように起こして行ってあげると、想像をはるかに超える癒しと解放があります。
渦中にいるときは恐くて仕方がないかもしれませんが、出すものはざっくり出して、すっきりしてしまいましょう!(^^)
全ては最高の調和に向かって流れている!ということを忘れずに。
現実が辛くて仕方がない方もいらっしゃるでしょう。けれど、「現実」と言う名のストーリーに、あまり深刻になりすぎないように。
その「深刻な」ストーリーは人生のほんの一部でしかないのですから、それらで人生のすべてを埋め尽くしてしまわないよう、素敵なもののためのスペースも、あなたの中にちゃんと残しておいてあげましょう。
苦しい状況の中で、そうした「素敵なもの」が、あなたをもっと素敵なところに導いていってくれます。だから、しっかりアンテナを立てておくのです。
どっぷりと悲劇の中に籠っていては、せっかくの導きにも気づけなくなってしまいますから。
この時期、私たちはたくさんたくさん「試されている」のだろうと思います。
「調子の良いこと言っているけれど、じゃぁそれ、口で言うほど本当にできてるの?」とか、
「もう大丈夫だって思ってるみたいだけれど、本当にそうなんだろうか?」とか。
こういう時に起こってくる出来事っていうのは、自分の一番弱いところをまさにピンポイントで揺さぶってくるようなものだったりして、心身ともに衝撃を伴ったりすることが結構多いかもしれません。
そうしたことがいきなり起こると、びっくりし過ぎて右往左往してしまいますが、「はいはい、来ましたね~」くらいに思って、ちょっと一服してから、改めて身体にしっかり入って受け止める、くらいの感じで出来事と少し距離を取って見られるといいですね。
嵐のような出来事の中で、それに巻き込まれて我を見失うのではなく、常に出来事を受け止めながらも分離することなく眺めている意識を持っていましょう。
これは、客観とは少し違います。
私のイメージでは「客観」というと、完全に自分とその出来事は分離していて接点を持っていない状態という認識なのですが、私がお伝えしている意識の状態では、自分はその出来事を心身ともにしっかり体験していて、離れてはいません。
けれど、意識はどっぷりとそれに飲み込まれてはおらず、自身の現実をしっかりと捉えています。
飲み込まれて我を見失うのは、意識が自分の心と体から離れてしまった状態と言えます。だから、どこまで行っても「自分」というこの意識が体験していることから離れないことが、地に足をつけること、自分の軸を保つことにつながっていくのだろうと思います。
かくいう私もまだまだですが、今まで容易く我を見失っていた状況でも、無様ながらもこれまでよりもどうにか我を保つことができた、というほんのわずかずつでも成長を感じられるときがあります。
当然、そういう成長は「容易く我を見失うような状況」を体験しなければ起きないので、このキツイ体験もまた、ひとえに自身の成長のために起こっているわけです。
思えば、「試練」とは、文字通り「試して練る」とあります。「この状況で、お前はどれだけのものなのか」と試され、そしてギリギリと心身を打たれて、練っているのです。
練るには固いままでは練れませんから、まずは柔らかくなるように徹底的に粉々にされたり筋を抜かれたり切られたりして新たな変容が起こりやすくなるように、準備されるのでしょう。
人間目線では、それがとても苦しくてキツイ。だから恐くてたまらず、どうしても避けたいと抵抗するんですね。
成長したければ、試されて練られるのも自身の理想に近づくプロセスです。受け身で身を固くして戦々恐々とするよりも、肚を決めて主体的に当たった方が、得るものも全然違ってくるのではないでしょうか。
ここから私は何を得るのか。
転んでもただでは起きぬよう、図太く行きましょう。