ここのところ、自身の在り方の方向性を決めるというテーマがやって来ています。先日、家族と出かける予定になっていたので、何時に出発してどういう交通手段で行くのかということを聞いたら、逆に「あなたが決めてよ」と言い返されました。
もちろんその予定というのは相手から誘ってきたことだったので、多少カチンときて「何言ってるんだろう、この人」と思いました。
こちらの都合を聞いてくれるのであればいいのですが、そうではなく、何の計画性も自主性もなく、すべて「丸投げ」な態度に腹が立ちました。
あまりにも無責任なその態度に、根掘り葉掘り相手に「ではあなたはどうしたいと思っているのか?その日の都合はどうなっていて、何時であれば動けるようになるのか?どんな交通手段で行きたいと思っているのか?本当のところ、どうであればいいと思っているのか?」というのを根気強く聞き出さなければなりませんでした。
話しながら見えてきたのは、とにかく考えるのが面倒くさい。自分がどうしたいのか分からない。誰かに決めてもらえればそれでいい。考えたくない。という感じでした。
自分のことなのに自分で決めないでどうするんだよ。。。とかなり呆れてうんざりしてきましたが、そういえば相手はこれまでにも自分から誘っておいて、「で、場所はどこにあるの?どっちに行ったらいいのよ?」と私に聞いてきたことがあったことを思い出しました。
その時はさすがに激怒したのですが、「しようがないなぁ、調べてあげるよ」とはならなかったので、私の中の丸投げな要素がトリガーされていたということなのでしょう。もう十年以上も前の話です。
どうして自分の欲求に自分で耳を傾けることもしないで人に決めさせるのか、その怠慢さに怒りが浮上してきます。
そう言えば、とさらに相手に対してふと思い出したのは、また別の時に一緒に出掛ける約束をして、相手に聞いた出発予定時間に合わせて準備していたら、まだ20分も前なのに「なにをぐずぐずしているの!まったくお前のせいで2時間も待たされているのに、空気が読めない!」と怒鳴られたことがありました。
何と理不尽なもの言いかとその時も腹が立って、私は「じゃぁ本当はどうしたかったのよ?なぜ自分はこうしたいのだとはっきり言わなかったの?」と詰め寄りました。
相手は自分の筋が通らないこともどこかで分かっているのか、さらに逆切れをしてお茶を濁していましたが、今回のことにもつながっている何かがあるのだな、と思いました。
キーワードは「本当はどうしたかったのか?」というところです。
相手は、自分の思いはいつも叶わないと思ってこれまで生きてきたのを、私は良く知っています。常に我慢我慢の連続で、怒りや悲しみも通り越して失望や諦めの境地でいることを、しばしば口にしていました。
だから、いざ「自分は今どうしたいのか?」と問うても、あまりに抑圧と失望が強すぎてさっぱり分からないのだでしょう。逆に、それを問われることは非常に居心地が悪く、ザワザワとした落ち着かなさを感じさせるので、「何でもいいからあなたが決めてよ」となっているのだと思います。
そして、だからこそ「本当はこうしたい」という欲求があってもそれを表現することができず、相手の都合に合わせた結果、それがあまりに自分の思いとかけ離れていた時、強くストレスを感じ、不意にそれが噴き出してしまったのでしょう。
周囲に居る人間としては何とも扱いづらいことこの上ない人物ですが、この人も私自身の鏡なので、よくよく覗き込んで気づきの糧とさせていただきます。
このような場合、まずは丸投げしている責任を、自分自身に引き戻して果たさなければなりません。自身の欲求を、結果に執着なく表現する責任が、私たちにはあるのです。それは、自分に対する責任です。
けれどしばしば私たちはこの責任を、望まない結果が起こった時に浮上するであろう痛みを避けたいが故に、放り投げて逃げてしまいます。
望みが叶わない苦しみは、誰しも多かれ少なかれ持っているものでしょう。そこから逃げるのではなく、この身体に居てしっかりと受け止めてあげることで、その痛みを癒していくことができます。
ここがクリアになれば、自分の望みを結果を恐れることなく、表現することができるようになります。
私たちは、結果に執着し、痛みを恐れるが故にものごとをとても複雑にし、矛盾に満ちた奇怪なモンスターにしてしまっているのかもしれません。
自身の本音を表現するには、自分自身としっかりつながっていることが不可欠です。本当はどうしたかったのか?人生のあらゆる時点で飲み込んた望みを、一つ一つ吐き出していきましょう。
そのことが、人生に対する深い失望から立ち上がる力を取り戻させてくれます。