人生に、辛いこと苦しいこと痛いことなんてなければいいのに!と誰しもが思うものだろうと思います。みなそれらを感じたくなくて、どうにか感じないで済むように、あらゆることをしてそれを避けているのですが、実はそのような生き方をしていると、人生はとてつもなくつまらなくて味気ないものになります。
何より、自分自身の持って生まれたパワーを制限し、生き生きと発揮できないので、いつしか自分にそんな素晴らしいパワーがあるのだということさえ忘れさって、しぼんでいきます。実際、かつての私自身を含め、そんな状態になっている方をとてもよく見かけます。
人は、どんな風に自身のパワーと切り離され、人生に絶望し、生きながらに死んでいるような状態になるのか、例を挙げてみていきましょう。
たとえば、ある人がある人生で、とても信頼していた人からひどい裏切りを受け、心に深い傷を負ったとします。この人はその心の痛みが耐え難く、とても受け止めることができませんでした。
その傷をいやすことのできないまま、何年も、何十年も、心は痛み続けています。常に痛いので、その人はその痛みを感じないように、「感じる感覚」を閉ざして、自分を守ることにしました。
こうして痛みは完全に消えることは無いものの、かなり鈍くなり、なんとか日常を送れるようになりました。けれど同時に、この人はとても大切なものを失ってしまいました。
それは、喜びや楽しさを感じる感覚と、自身の深奥からやって来る、人生を導いていくはずの声を聞く力です。
「感じる感覚」は、実は導きを聞く感覚と同じものなので、これを閉ざせば、自分がいつ何をどうすればいいのかということが全く分からなくなってしまいます。
そうなるととても困るので、これを補うためにその人はあらゆる情報を集めて「考えて判断する」ようになりました。けれど、思考はしばしば間違いを犯します。宇宙の深い調和のリズムともつながっていないので、まるでオーケストラの中で一人調子はずれの音を出すような行動をしてしまうこともしょっちゅうです。
だから、頑張っている割にはうまく成果があがらないという状態になるのです。
また、思考はマインドの領域で起こっていますから、思考するほどに意識は「今この瞬間」には居なくなります。今この瞬間には、マインドの領域は無いからです。
私たちの多くは、自分が「今この瞬間」に居ないことに気づいていません。そして、そのことが存在としてどれだけ重大なことなのかも、全くと言っていいほど分からずにいるのです。
感情解放ワークでもよくお伝えしているのですが、私たちは生々しい心の痛みを感じることを避けようとして、しばしば「感じる」替わりに「考える」ということをします。
深い悲しみをダイレクトに感じるのは辛いので、「悲しいという概念」に置き換えて、それを体験しているのです。けれど、感情と思考は別のものですから、いくら悲しみの概念について考えたりしても、悲しみを受け止めたことにも表現したことにもなりません。だからいつまでも悲しみが続くのです。
深奥からやってくる導きの替わりに思考を使うように、ここでも感情を感じる替わりに思考を使って、私たちはオリジナルを生きなくなってしまっています。
この部分に気づいて、どうにかして体験を在るがままに受け止め、生きることができるようになることが、宇宙の調和とともに生きたり、深い喜びを感じたりするようになるためには、とても大切なことなのです。
それには、喜びを生きるのと同じように、悲しみや怒り、苦しみや嫉妬、憎しみなども「責任を持った方法で」受け止め、生きられるようになることを避けて通ることはできないでしょう。
先の例に挙げた人のケースで言えば、信頼していた人に裏切られたショックや悲しみ、怒りや憎しみ、無力感、絶望感など、あらゆる痛みを受け止めていくことがテーマになってきます。
もうこんな人生なんか嫌だ!と、「今ここではない別のどこか遠いところ」を求めて彷徨い続けていても、本当に求めているものに出会うことは絶対にないでしょう。なぜなら、それは一番最初に「ここには無い」と去って行った、まさに「今ここ」にあるからです。
今ここに居るのが嫌なのは、そこが辛く苦しいところだからでしょう。けれど、それを引き受けたときに初めて、その人の中で大きな変容が起こります。そのことが、現実の感じ方を変え、在り方を変えます。
その変容した在り方で現実を生きたとき、求めてやまなかったものが今ここに在ることが分かるのです。
今この瞬間に在るものが何であれ、差し出されたものに丁寧に応答していくと、今この瞬間を生きるために必要なものが現れてきます。
なぜ自分の人生にこんなことが起こったのかという気付きもやってくるでしょうし、深い癒しも、導きも、みんなやってきます。
だから、自身に起こったあらゆることを受け止めて生きる方法をしっかりと身に着けていきましょう。