昨年暮れから始まった水星逆行ですが、今日で明けますね。そろそろ滞っていたものが流れ出しているという方もいらっしゃると思いますが、個人的には、何となく気持ち的に一息ついて、新たな流れに乗って行くぞ!という感じがいたします。
先日、どうも最近は常に頭が思考で一杯で、本当に自分自身の深奥に意識を向ける時間を作っていないということを感じたので、いつもの夜の瞑想の時に、じっと自身の奥深いところに意識を向けてみました。
すると、「あぁ、『それ』は私が何を望んでいるのか、私の中に望みが生まれる前からちゃんと知っているのだ」という気付きがやってきました。その気づきは思考によるものではなく、明らかにそうであると、解釈をする必要もないくらいの感覚となってやってきたのです。
よく、ものの本の中にそんなような言葉を見かけることはありましたが、これまで、こんな風に体感を伴って実感することはありませんでした。むしろ、「なんでこんなに必死にならないと私の望みは叶えてもらえないのか」と、神との遠い距離を感じることの方が多かったのです。
けれど、私の中の深奥に居ます『それ』は、明らかにすべてを知っていました。
そして、その感覚が起こると同時に、「それは既に叶えられている」という感覚もやってきました。賢者たちが繰り返し私たちに伝えているのは、このことだったのか、と、そのときやっと腑に落ちました。
これまで、同じようなことを何十回も聞いてきたのに分からなかったことが、きちんと自分の深奥に向き合ってものの数秒で気づけてしまったというのは、ある意味驚きでした。
通常の意識に戻った時、この気づきを持ち帰って行かせるだろうかと一瞬そんな思考がよぎりましたが、それは邪道なのだろうと考えを改めました。
どんなささいな気づきも、壮大な神秘体験も、今この瞬間以外に存在すべき場所はなく、それは他の平凡と思える体験の数々と同じように、やって来ては去っていくものです。
必要なものは、この内なる深奥に向き合うとき、満たされます。過去の「素晴らしい気づき・体験」を抱え込んでいては、今この瞬間を生きるために本当に必要なものが受け取れません。
執着することなく両手を空っぽにして、深く深く、自身の深奥に意識を下していきましょう。
私たちの多くは大抵、今この瞬間の自分に何かしらの不足感や無価値感、絶望の痛みなどの重荷を持ち込んで、疲弊しています。その苦しさから何とか逃れたくて、様々な解放のメソッドやヒーリング、心理的なカウンセリングなど、とにかく自分を満たしてくれるもの、苦しみを和らげてくれそうなものを手あたり次第にその側から集めてきて、実践して見たりするのです。
そのこと自体が悪いというわけではありません。中には素晴らしい気づきのヒントをもたらしてくれるものも、確かにあるでしょう。けれど、それらはただこの自身の深奥に満ちているパワーの源泉に帰っていくためのツールにすぎません。
ツールはそれ自体には善悪はありません。ただ、使う側の意識や動機によって、その効果は天と地ほどの差を生みます。
個人的には、ツールを漁る前に、それを使う動機を正し、しっかりとツールと向き合いながら、自分の器を育てていくという意図の設定を行う方が先だろうと思うのです。
いずれにせよ、どんな道筋を辿っても、その歩みは私たち自身を深く知ることというテーマであることに変わりません。「これだけのものを得た!」と形ある成果に一喜一憂する自分が落ちていくと、もっと別の人生の意味や目的が向こうから姿を現してきます。
よく、リーディングセッションなどで「私の人生の使命は何でしょうか?」というご質問を受けることがあります。その方が今どんなポジションに居るのかによって、メッセージは随分と質の異なるものになりますが、そういうご質問をされる方は、往々にして「具体的に形ある成果に到達すること」が自身のミッションなのだと考えています。
あるレベルでは、そういう使命も間違ってはいないかもしれません。が、もっと深いレベルにおいて、私たちの人生の目的(そんな言葉で表現されるものがあればですが)は、「何かになること」ではないのです。
たとえば、私にとって「優秀なヒーラーになること」は、人生の目的ではありません。強いてそれを言葉にするのなら、ヒーリングや意識の目覚めにまつわるあらゆる取り組みを通して開示される人生の神秘を、ただ今この瞬間に在って楽しむことの方に、意識は向いています。
ヒーラーとしてのテクニックや素質などは、その歩みの中で自然に磨かれて行くものであり、副次的なものだと思っています。
人によって、これがアートだったり様々な職人芸だったり、お金儲けの場合もあるでしょう。
旧松下電器の創業者である松下幸之助さんの言葉だったと思うのですが(うろ覚えです。間違っていたらすみません)、自分はお金を儲けることを通して宇宙の真理を学んでいるというようなものがあったように記憶しています。
このように、その人その人の適正にによって道は違いますが、どんな道を通っても、最終的には究極の真理に至るのでしょう。
道を歩むとき、どうぞそれを強く望む「動機の奥にあるもの」に、注意深く在ってください。