「分離を促すもの」と「 幻想を拭い去るもの」

最近、「無理をしない」ということを
意識するようにしています。

以前はかなりワーカホリックな傾向が強く、
自分のキャパ以上に詰め込まないと
物足りなく感じていました。

自分の中に強く不足感を抱え込んでいたので、
それをがむしゃらに詰め込むことで
埋めようとしていたんですね。

けれどそれも、今の自分で十分なんだ、
思い通りにならないと思っているこの状態で
何も問題は無いのだということが
少し腑に落ちてきた頃から、

自分をそんなに駆り立てなくても
大丈夫になって来ました。

在るがままの自分でいることに、
やっと許可が出せてきているのだと思います。

自分を駆り立てないって、こんなに楽なんだって、
しみじみ実感しているところです。

今まで、楽な状態でいることに罪悪感すら
感じていましたから、それを望んでいるはずなのに、
とても居心地が悪かったのです。

楽でも良いんだ。
無理しなくても、生きていていいんだ。

当たり前のことなのですが、私にはどうしても
許せなかった境地です。

そんな状態でしたから、生きることはまさに
「苦行」でした。

まぁ、過去世では修験者などのいわゆる「修行系」
の人生も多かったようなので、それが普通
と言う感覚でしたが、

そもそも何のために修行しているのか、
「修行のための修行」ではいかんわけです。

探求者は、修行を超えていかなくては、
探求の目的を達成することはできません。

一目見て凄い!と思わせる人は、
実はまだそんなに凄くない。
本当に凄い人は、いたって普通に見える。

そんな話もあります。

修行者臭さ、聖職者臭さ、聖者臭さ、ヒーラー臭さなど、
語弊を恐れず言えば、道に打ち込めば打ち込むほど、
その道の臭いがつくものです。

それが良いとか悪いとかではなく、
ただそれも、通過していくプロセスなのでしょう。

その点、私が師と慕うレナードは、普通にしているときは、
そういう「凄い人臭」はほとんど感じさせないですね。

以前セミナーの後に駅の近くで一人で彼が歩いている
ところを見かけたことがありますが、行き交う人は、
誰もあれがすごい覚者だとは思わないでしょう。

ホントに、普通のおじさんに見えます。

別に愛を振りまきながら、この世のものとは思えない
素晴らしい笑顔を見せ、奇蹟を行いながら
歩いているわけではありません。笑

そう言えば、アジャシャンティもこんな風に言っていました。
(久しぶりの動画紹介ですね)

彼は、あれだけ打ち込んできた禅に対して、
「このいのちと分離していた幻想」と表現しています。

それは、「自分の中で作り上げたファンタジー」だと。

私たちも、それぞれのファンタジーから
目覚めていく時が来るのでしょう。

そんな風に書きながら、ふと
「お前は何のために修行しているのか」
と問われた気がしました。

日課の瞑想もジャパも、解放ワークすら、
ただ積むことだけが目的になって惰性でやっていないか。

やっている、ということで安心しているだけのもの
になっていないか。

積むこと自体が悪いわけではもちろんありません。

精度は今一つでも、とにかくこなすだけで精一杯
の日もあります。

積むことで初めて見えてくるもの、身に付いてくるものも
確かにあります。

それでもなお、「声」は私に問い続けます。

「お前はなぜ、それを続けているのか」と。

「夢の状態のためのもの」ではなく、
「夢の状態から目覚めるためのもの」でなくては。

「声」は、惰性にまどろむ私の痛いところを突いてきます。

けれど、それを体現するのは、今の在り方とは
天と地ほどにも違います。

そんなことができるんだろうか。私に。

あまりにも桁違いの繊細さと持久力を要求されるように
感じて瞬間的にそう思った私の脳裏に、
ふとやって来たビジョンがありました。

今度のハイヤーセルフと繋がる特別講座のプログラムを
練っていた時に降りてきたワークの一部でしたが、
なるほど、と思いました。

それを言葉で言い表すのは難しいのですが、
そのビジョンで、バクティ・ヨーガがどういうものなのか、
少しだけ理解したような気がしたのです。

バクティ・ヨーガと言うのは神への信愛の情によって
悟りを目指す道のことです。

(この気づきを説明するのに言葉足らずで申し訳ない)

本当にハイヤーセルフと繋がるということは、
ハイヤーセルフとして生きることでもあります。

食べる時、歩く時、寝る時、仕事をしている時も、
片時もハイヤーセルフから離れず、
それと溶け合っていきます。

そうなると、「意識を向ける」という表現すら
ふさわしくないかもしれません。

このハイヤーセルフを神に置き換えてみると、
それがまさしくバクティ・ヨーガなのだろうと
思ったのです。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい」とは、
聖書の中の言葉ですが、これはまさしく
バクティ・ヨーガです。

レナードは、本当にプレゼンスに在るということは、
神を礼拝することである、と言っています。

これは、アジャシャンティが動画の中で
「スピリチュアリティは生活・いのち、すべての存在は
同じもの」と言っていることと同じなのです。

真のスピリチュアリティに分離はありません。

修行が、分離を促すものにならないように。
幻想を拭い去るものであるように。

何だかまとまっていませんが、
気づきの備忘録として書き留めてみました。

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