私たちは心身に苦痛を感じるとき、
様々な方法でその苦痛を何とか和らげ、
やり過ごそうと様々な回避行動をします。
感じる代わりに考えたり、
何か別の刺激で紛らわせたり、
八つ当たりなどをして発散したり、
大したことではないと思い込んだり、
無かったことにしたり。
今日取り上げてみたいのは、
苦しみを別のより大きな苦しみで
紛らわせるという回避行動についてです。
苦しみから逃れたいのに、
別の苦しみ、或いはより大きな苦しみを
もってそれを紛らわせるというと、
なかなかに理解しづらいかもしれません。
けれど、割と見かけるパターンではあります。
最初に体験した苦しみがあまりにも辛く、
健全な自尊心が打ち砕かれてしまったような
状態になった時、
健全であること自体が辛くて耐え難く
感じることがあります。
だから、健全でない自分になるよう
殊更に自分を痛めつけ、汚していくことで
バランスを取ろうとするんですね。
あるいは、
あまりにも深い苦しみから
自分や周囲の人間、世界を呪い、
恨みや憎しみを支えに人生を生きるとき、
自分を殊更に悪に染め、
悪である自分にプライドすら感じて
自分の本質は悪なのだ、と設定して
苦しみを力に転換するケースもあります。
鬼滅の刃で言うと、上限の鬼の妓夫太郎が
まさにこのケースに当てはまりますね。
(知らない人はごめんなさい)
どのケースであるにせよ、
苦痛の回避からこじれている場合、
これを正常な軌道に戻そうとするなら、
回避しようとした苦痛を受け止め、
統合することが定石になります。
耐え難く、受け止め難かった経験を
いかにして受け止め、昇華させていくのか、
それができるような道筋をどうにかして
見出す必要があるのです。
それができない限りは、歪んだ悪の連鎖、
本来の自分を生きることが出来ない苦しみ、
そして自分を誤魔化し続けることの
苦しみは続きます。
けれど、そこさえ本当に自分に向き合い、
越えていくことが出来れば、
どれだけ悪に染まっているように見えても、
健全な自尊心を取り戻し、
本来の自分を生きることの喜びを
晴れやかに味わう人生に戻っていく
ことはできます。
そのためには、自分は本当のところ、
どうなりたかったのか、
嘘や誤魔化しで逃げないで
そうなりたかった姿を求めなければ
なりません。
それを求めることは、
ひどく辛いことかもしれませんが、
それでも、
自分の真の望みを求められた瞬間から、
逃げずに自分に正直で在れた
という一点において、
自尊心が回復していきます。
痛みに容易く屈し、逃げないで
自分自身で在ることが出来るということを
身をもって証明したからですね。
そうなると、
もはやその人は痛みに屈していた時の
自分と同じではありません。
その人の内からは力が湧いてきて、
踏みとどまって痛みを統合していくだけの
気力や胆力が備わります。
そうやって、負のスパイラルから
正のスパイラルへの転換が始まります。
どれほど深い闇や悪からの転換も、
最初は本当に小さな小さな決意表明から
全てをひっくり返すほどの力強い
エネルギーが生まれていくのです。
だから、闇の深さに絶望して、
もう自分は二度と戻れないのだ、
と諦める必要はありません。
その思いは決して真実ではなく、
ただ悪に染まり続けることへの惰性と
絶望というフィルターに
飲み込まれているだけです。
まぁ、闇に引きずり込もうとする勢力
にとっては、そう思い込ませている方が
都合が良いというのは確かに
あるでしょうね。
だから、そう信じてしまっている
自分に気づいたら、本当にそうだろうか?
と疑ってみると良いでしょう。
悪に染まり続けることが
自身の本当の望みでないのなら、
そこに留まる理由はありません。
自分を悪に染めるのを止めればいい。
そして、そのことによって
見ないで済ませてきたものに、
きちんと向き合えばいいだけです。
自分を誇りに思える清々しさ、
命の輝き、重荷のない晴れやかさは、
代えがたいものがあるでしょう。
ダークサイドとの契約も、
積もり重ねた暗いカルマも、
解けないものではありません。
自分の決意一つですね。