日々サロンに見える様々な方と接する中で、
同じようにセッションしても、
結果の出方はどうしても人それぞれ。
そこをいかにより良い結果を出せるように
するか、というところは毎回、
思案のしどころです。
みなさん、持っていらっしゃる背景も
全く違いますし、自分の内側を見る習慣を
全く持っていない方もあれば、
何かしら実践して来られた方もあります。
お一人お一人の個性や背景に合わせて、
いつ、何を、どうお伝えすればいいのか、
どんな提案をしたらいいのかなどなど、
毎回、反応を見ながら
もっとできることは無いんだろうかと
考えることはあります。
中でも、一番の悩み(という表現もあまり
適切ではないかもしれませんが)は、
なかなか引っ掛かっているところから
先に進めていないように見える方を、
どう、先に進めるような状態に
整えて差し上げられるのか、ということ。
もちろん、ご本人のタイミングとか、
諸々の要素はあるにせよ、
ヒーラーとしての私にもっと何か
できることはないだろうか、と
悩ましいものがあるのです。
そういう方はどこか共通するところがあって、
自分で決めて自分でそうしているのに、
それを認めず当事者意識がないとか、
当事者意識がないので、自分は進みたいのに、
この自分が邪魔をしている!とばかりに
自分自身と戦ってしまっている
といった特徴があったりします。
こう書き出してみると、
自分がしていることに対して
当事者意識を持つことがいかに大切か、
かなりこれがカギになっていることが
わかりますね。
当事者意識がないというのは
どういう状態かというと、
たとえば、
自分でそのように決めればいいだけなのに、
「え、どうやって決めればいいの?」
ってなってしまったりするんですね。
これ、「あなたの右手を上に上げて下さい」
って言われて、「どうやって?」って
言うのに等しいくらいのナンセンスです。
どうしてこうなってしまうのか。
自分に対する主権を放棄しているから、
と言えるかもしれませんね。
つまり、この「自分」が
自身の意志が及ぶ領域の外の存在
になってしまっているわけです。
この感覚を先ほどの例にたとえてみると、
「隣の人の右手を上に上げさせてください」
ってなるでしょうか。
これだと、
「え、どうやって?」
って言っても不自然じゃないですね。
つまり、自分が他人になっている。
他人だから、その人がどんなになっていても、
自分はどうしようもないし、関係ない。
という以上に、自分とは違う異質な存在が、
時に自分のやりたいことを邪魔してくる
って言う感覚になっている気がします。
そして、こんな自分!こんな自分!
と言ってひどくその自分を憎み、
戦ってしまう。
そういう人を、何人も見てきました。
どれだけ
「ワークは自分を愛することであり、
自分と戦ってはいけない」
とお伝えしても、
そういう方は、
自分自身と和解しようとはせず、
自分の思う通りにするために
表面的に受容したり、愛そうと努力しますが、
根底にあるのが
「思うようにならない自分をいかに
コントロールして支配下に置くか」
というようなスタンスなので、
その試みがうまくいくことはないのです。
この在り方がなぜいけないのか
というと、
その苦しみを作り出しているのは
自分自身の在り方なのだ、
というところへの気づきと悔い改めが
ないからです。
いくら「結局は自分自身なんだ」
と何十回となく思ったとしても、
その自身の在り方が転換できていない。
ここが大きなポイントですね。
これができなければ、
「結局は自分」ということの意味を
本当に理解できたとは言えません。
自分を分離し、異物のように見るのではなく、
自分自身を生きて、主体性を取り戻すことです。
自分と戦ってしまう人は、
自分自身であることが辛いのでしょうね。
私はこんな自分じゃない!
って、自分であることを拒否している
ところがあるのかもしれません。
でも、世界の果てまで逃げたって、
自分から逃げおおせることは
できませんし、
結局帰っていくところは
この自分しかないのです。
よく、自分の居場所がないっていうことを
聞きますが、
多分その人は居場所がないのではなく、
自分であることを拒否しているのだろうな、
と思います。
この自分が自身の居場所なのに、
それを拒否したら、居場所がなくなるのは
当然のこと。
いかに辛くとも、
今この瞬間の自分自身を生きることから
逃げたら、本当に世界から切り離されて
迷子になってしまうでしょう。
八方ふさがりに見えても、
今ここでこの自分を生きることで、
開けていく道が見えてくるのではないかな、
と思います。