自身の心の中を深~く見ていくと、
時折思いもしなかったような思考が
入っていて、びっくりすることが
あります。
ワークショップやセッションなどでも、
クライアントさんに
「こんなの入ってます?」って聞くと、
一瞬「え?」って驚かれますが、
じ~っとご自身の胸に聞いてみると
「あ、入ってるみたいです」って
答えられるんですね。
たとえば、
愛されてはならない。
認められてはならない。
有能であってはならない。
豊かであってはならない。
自分を罰し続けなければならない。
許されてはならない。
などなど。
顕在意識レベルでは、
それとは正反対のことを求めていて
一生懸命なんですけれどね、
無意識レベルでこんなものが入っていることが
本当によくあります。
なんでこんな風に思ってしまったのか。
そう思うに至る何かしらの
「痛みを伴った具体的な経験」があるはず
なんですね。
ワークではそういうのを掘り下げて
そこに貼り付いている感情的な痛みを
統合していくわけですが、
幾つもの思考プログラムが密接に絡み合っていて、
複雑に重なっていることがよくあります。
でも、そういった幾重にも重なり合った
制限を伴うプログラムの根っこにあるのは、
結局、今この瞬間の自分を引き受けられていない
ということではないのかな、と思うのです。
あまりにも辛すぎて受け止めきれないとか、
絶望の中で望みに背を向けたとか、
ただ断ち切っただけではなくて、色々
こじれてしまっていることもあります。
そういう人の心理の奥に奥に潜っていくにつれ、
結局癒しとは、自分を守ろうとして重ねてきた
鎧を脱いでいくことに他ならない、と
思うのです。
自分を守ることをやめる。
とても勇気の要ることですね。
ものすごく傷つくかもしれないし、
苦しむかもしれない。
もちろん喜びもあるだろうけれど、
そのどちらも引き受けて、
なおこの自分として生きていく。
何かや誰かのせいにしていないか。
自分自身を分離させていないか。
都合の悪いことにふたをして逃げていないか。
この瞬間の自分を離れてしまっていないか。
最近はそうしたことを意識しながら、
瞬間瞬間、在ることを心がけています。
もちろん、自分を守ることをやめる
と言っても、何もサンドバッグになる
って言ってるわけじゃありません。
自分を安売りしたり、粗末にするのではなく、
自身の尊厳を守るための行動はしながらも、
自分の本当の思いや感じていることから
逃げないってことでしょうか。
私たちはよく、痛い思いをしたくなくて
自身の真実を捻じ曲げることがあります。
それをしてしまうと、一時的に痛みからは
逃れられるけれど、今度はもっと大きな代償を
長期にわたって払うことになるんですね。
だから、そういうことをしない、という意味での
自分を守ることをやめるってことです。
すごく傷ついているのに傷ついていないふり
をするとか、ものすごく怒っているのに
何でもないように笑っているとか。
こういうのもある種、自分を守っているわけです。
もちろん、そういう守り方が必要な時もある
でしょうから、すべての人のすべてのタイミングで
それがよろしくないというわけではありません。
けれど、ずっと自身の感じている真実に
蓋をし続けることはできません。
いつか、自身の真実を生きなければ
いけないときがやってきます。
そのときに、傷つくことや
深く打ちのめされることへの恐れを
超えていくんですね。
そして、痛みを統合していく。
鎧を一杯つけて強がっているより、
どれだけその在り方の方が強いのか。
そして困難であるがゆえに、尊いのか。
真の強さとは、そういうものだと
私は思います。
傷ついているときって、本当に辛いですよね。
その、辛い思いをしている自分を
責めたり無かったことにしてしまうのは、
さらに自分を傷つけます。
一番辛い時に、自分が自身を見捨てず、
寄り添って在ることが大切です。
そのために、その辛さを引き受けることが
必要なのです。そうでなければ、とても
自分に寄り添うことなどできないから。
そういうことができるようになってくると、
自信がついてきますね。
自分を信頼できるようになるからです。
一番辛い時に真っ先に逃げ出すような存在を
誰も信頼なんてしません。
そういうときにこそ寄り添ってくれるのが、
真に信頼に足る存在であるはずです。
そういう自分で在るとき、
あなたは他の人から見ても、
信頼に足る存在になっているでしょう。