他者や自分をジャッジメントしてはいけない
と思いつつ、自分でも気づかない内に
そうしていることって、ありますよね。
そして、ジャッジしてる時の、
とても不愉快な感覚も。
誰かや何かを批判せずにはいられないのは、
何かしらこうした不快感を感じているからです。
それを少しでも紛らわせるために、
批判しているわけです。
試しに、批判を止めて見ましょう。
その瞬間から、とても居心地の悪い感覚や感情が
噴き出してくるでしょう。
批判は、このエネルギーに駆り立てられて
起こるのです。
だから、常に何かや誰かを批判し続けている人は、
心の内側で、不愉快な感覚や感情が
噴き出していて、自分でそれを収めることが
できずにいる人です。
相手に対して、純粋にアドバイスしている
つもりでも、少しでもこうした不快感があり、
それに対して自分で責任を取れていないのなら、
そのアドバイスの言葉の中に、
批判のエネルギーが乗ってしまいます。
それは、表面的にはアドバイスだけれど、
実際はあなたが逃れた不快感というエネルギーを
相手に責任転嫁して投げつけているだけです。
誰しも、多かれ少なかれ「正論」という
盾の後ろで、こういうことをやっているでしょう。
言ってることはごもっとも。
だけれども、どうも肚に落ちないし、
なんだかとても不快に感じる言葉には、
そこに、言葉の意味とは別のエネルギーが
乗っているためなのです。
こういうケースって多いですよね。
あなたのためと言いながら、
私の思う通りに動いてくれないと困る、
と思っていたり、
社会的、常識的にはこうすべきだろうと
諭しながら、脅威を感じる相手の力を
巧妙に潰そうとしていたり。
あなたを愛していると言いながら、
私を幸せにするのはあなたの仕事だと
責任転嫁していたり。
その言葉の表現の裏に、
どんな意図、エネルギーを乗せているのか。
私たちはしばしば、屈折した表現の仕方を
していますよね。
そして、他者の中にそれを見る時に、
ものすごい不快感とストレスを感じます。
一方で、自分でやっていることには
ほぼ気づかない。
だから、「鏡」を見て自身の在り方に気づき、
修正する機会が必要なのです。
本当はどうしてほしいのか。
なぜストレートにそれを表現できないのか。
そうすると、都合が悪いという部分に
自分自身で責任を取るなど、別の在り方をする
という選択はできないのか。
ねじれた表現の奥の構造を複雑にしておくほど、
あなたの願いの実現は、遠くなっていきます。
ややもすれば、本来自分が何を望んでいたのかすら
複雑な回り道の中で見失ってしまうでしょう。
こんなに複雑で、痛みを伴う在り方を、
あなたはそもそも望んでいたのでしょうか。
これは、決して叶わないと思った何かの代償として
あなたが選んできた選択だったのでしょうか。
複雑で痛みを伴う在り方は、長くその状態を
続けることはできません。
どこかの時点で、必ず軌道修正するように
と人生は促してきます。
本当に望むものを、誤魔化さないで
望み、求めなさいと。
長く自身の本当の望みを否定したり
隠したりしてきた人にとっては、
それはとても勇気の要ることでしょう。
でも、それをするところから、
本当の自分の人生を生きることが
始まるのです。
人は、どれだけ長く真の望みを
否定し続けてきたとしても、
抑えがたくその願いが噴き出してくる
時が来るものです。
あらゆる恐れや、そこからくる言い訳を
越えて、その願いに自分を没入させることが
できると、何かが変わってきます。
恐れや言い訳、気力がなえそうになる時は、
どうぞこの自身の奥深くにある願いへの欲求に
意識を合わせてみてください。
頭で、「私って本当はどうしたかったんだろう?」
と考えるのではなく、
ただじっと、自分の意識を内側の最も深いところに
向けて、この奥にあるものが浮上するようにと
願えばいいのです。
感情解放のワークでは、
深いところのものが浮上するときにブレーキ
となる恐れを緩めていくテクニックはあります。
けれど、最終的なところは必ず、
本人がそれを生きるのだという決意が
すべてを決めます。
自身の内側深いところからやって来る望みを
真っすぐに望み、求めることができたとき、
間違いなくあなたのエネルギーは高まります。
他者をコントロールして自分の望みを
叶えようとするような、遠回りなやり方
ではなく、
自身で自分の望むことを叶えていく
喜びが、あなたを満たすからです。
そんな風に、人生を生きて生きたくないですか?
そうなったら、もう誰かに自分の責任を
代わりに引き受けてもらうことになんて
何ら興味は湧かなくなるでしょう。
もう、夢中で自身の人生を生きるのみ!
ですよね。
日々の諸々の悩みや苦しみを越えて、
批判や恐れのドラマを越えて。
あなたの真の望みが、
取り戻されますように。