人間生きていれば心に重く引きずってしまう
失敗の一つや二つ、あるものだと思います。
自分が恥ずかしいというだけではなく、
自分のせいで多くの人に迷惑をかけてしまった
とか、とても大切な人を傷つけてしまったとか。
後悔や自責の念がグルグルと巡っては、
いつまでも苦しくて、新しいことをやろうにも
どうしてもブレーキがかかってしまう、
ということ、あるんじゃないでしょうか。
こういう苦しみも、ちゃんと統合していく
方法はあるのですが、まずは自分のやったことを
しっかりと受け止めることが一番最初に
すべきことです。
失敗をしたときに、大抵の人は
ものすごくショックを受けて、
その出来事から逃避します。
現実から逃避するだけではなく、
ショックや動揺している自分からも
意識がするっと逃げてしまうのです。
こうすると、なすべきことがそこであっても、
現場に自分がいないわけですから
どうにも対処の仕様がありません。
こうして空回りしてしまうのですね。
だから、まずはその出来事が起こったときに
体から吹っ飛んで分離している意識を
自分の体に戻していきます。
そうして、この心と体でその動揺や
ショックなどを受け止めるわけです。
何度もこのブログで書いていますが、
後悔や自責の念は逃避です。
耐え難い居心地の悪い感情から
逃げるため、自分を責めたり
あ~すればよかったこ~すればよかったと
思考に逃げて紛らわせているだけです。
いくら自分を責めても、
根本的に現実を受け止めてもいないわけ
ですから、改善の見込みは全くありません。
また同じことを繰り返すでしょう。
現実を受け止めず、動揺しまくった状態で
誰かに謝罪したとしても、いったい自分の
何が悪かったのか、自分のしたことで
何が本当に起こってしまったのかすら
わかっていないでしょう。
どれだけの人がどんな迷惑をこうむったのか、
誰にどんな苦しみ、痛みを与えたのか、
決して見ることはできません。
けれど、謝罪というのはまさにそういう痛み
に対して行うものです。
それを知らずに、どうやってどんな謝罪を
するというのでしょうか。
その状態でする謝罪は、
ただ自分が許してもらって
楽になりたいがためだけのものであって、
極めて利己的な行為です。
こういう謝罪は、された側も
一見自分をすごく責めているし、
反省しているように見えて、
どこかすっきりしないものに感じるでしょう。
だから怒りも恨みも、消えることはありません。
けれど、本当に相手が自分の痛みを
深く分かったうえで、心から
その痛みに対して申し訳なかった、
と謝罪されたのだとしたら、
その瞬間にどんな深い恨みも一瞬で
消えるのです。
百年の恨みも解けます。
復讐してやりたいという思いは、
相手に自分と同じか、それ以上の痛みを
味わわせて、自分が何をしたのかを
思い知らせたいというところから
発していると思います。
だから、本当に自分が何をやったのかを
しかと知って、受け止めなければならない
のだと思います。
これができたときに、私たちは
「失敗の種」を手放すことができるのです。
そうでない限りはずっとこの「失敗の種」を
自身の内に秘めたまま、再びこれが芽吹いて
しまう危険性をどこか心の奥深くで感じています。
だから、「戒め」が必要なのです。
「戒め」が必要だということは、
再び失敗する可能性が確かにある
ということを意味しています。
失敗を二度としないためには、
戒めの必要のない自分になっていなければ
なりません。
すなわち、「失敗の種」を完全にクリア
している自分です。
本当に自分が悪いと思っているのなら、
自身のやったことに深く向き合い、
受け止めていくことです。
ここから、調和と和解への道が始まります。
一時苦しくとも、それは深い癒しと
安堵、解放と喜びへとつながる道です。
何十年と自分を責め続けることを選ぶのか。
相手も、自分をも解き放って調和する道を
選ぶのか。
意地もプライドもすべて捨てこそ、
生きる道もあるというものです。
明日、どんな自分として目覚めたいか。
どんな現実の待っている朝を迎えるのか。
すべて、自分の心ひとつですね。
あなた自身で、現実を創造していけるんですよ。
願わくば、あなたの生きる道が、
調和と喜びに満ちたものでありますように。