どこかで、愛の反対は無関心だという言葉を
聞いたことがあります。
愛の反対は悪意かと思っていましたが、
言われてみれば、悪意ならばまだ
こちらに意識が向いているわけで、
決して心地良くはないけれど、
ある種の交流は起こっています。
けれど、無関心にはそれすらもない。
相手の世界には、私が存在するスペースが
そもそも無いのですね。
愛は交わりの中から生まれ、流れていきますが、
存在しないのだから、交流の仕様がありません。
何も起こり様がないわけです。
自分はここにいるのに、存在を抹殺される
ことほど残酷で、絶望を生む仕打ちは
ないでしょう。
そのような状況に置かれた存在は、
愛が欠乏し、生気を失い、
鈍く凍り付いていきます。
実は、こういう視点で世の中の様々な
ことを見ていくと、色々見えてくるものが
あります。
日々世の中に起こる悲惨な事件の中に、
日常接する人たちの中に、
そして一番は、自分自身の中に。
自分自身に対して無関心である人は、
周囲からどんなに愛を注がれても、
愛を受け取ることができません。
愛を享受するはずの自分自身が
存在しないことになっているからです。
それに、愛を注がれる以前に、
鏡の法則を通して、周囲の人が
自分に対して無関心である現実を
味わうことになるでしょう。
感情解放ワークをしていると、
しばしば自分の中にこうした無関心さで
存在を抹殺された気持ちのカケラたちに
出合うことがよくあります。
そういうカケラ君たちは一様に、
悲しみと絶望のなかで、冷たくなって
生気なくうずくまっているのです。
愛が流れてきていないので、
栄養失調状態になっているのですね。
ワークでは、この愛を「命」と表現して、
意識と呼吸によって必要なところに
導いていくということをします。
自分の中で、壊死寸前の状態になっている
心の一部を、こうして復活させていくわけです。
けれど、このワークでしばしば出合う抵抗に、
それまで無関心によって封印してきたものを
復活させてしまう恐れというものがあります。
つまり、それが大嫌いだったからこそ
封印して無いものにしてきたのに、
復活してしまっては都合が悪い、という恐れです。
これは大きな思い違いで、
本当は分離、封印したからこそ厄介な問題を
引き起こしていたのに、それ自体がいけない
ものなのだと信じ込んでいるのです。
それに、心の一部が壊死寸前の状態でいることが
健全であるはずはありません。
そんな状態で真の幸せや安らかさが実現される
はずなどないのに、決して満足ではないけれど、
そこそこ耐えていけるかりそめの安定に
エゴはひどく執着してしまうのですね。
例えていうなら、
実はひどい故障を抱えた体なのに、
痛みを薬で麻痺させてそこそこ動けるように
しているようなものです。
今は何とかまだ動けるからこれでいいや、
って感じでしょうか。
良いわけないですよね。
麻痺させてるだけですから、根本的に
治癒に向かって回復していくわけでもない。
今でさえ、体にかなりの無理を強いて
いるのに、その状態が長期に続けば、
ますます悪くなってしまいます。
実は多くの人が、自分の心に対して
こういうことを平気でやっていて、
しかも自覚がないんですね。
で、どうも生きづらい。
心から笑えないし、のびのび生きてもいない。
ふとした瞬間に虚しくなって、悲しみや
淋しさで気が狂いそうになる。
でもそれがどうしてなのか、
自分でもわからずに戸惑うのです。
そんな状態を、
人生なんて、そんなもの。
世の中はそういう風にできている。
みんなどうにかして折り合いをつけながら
生きているんだから仕方がない。
とか言って、自分を納得させて
またふたをしっかり閉め直して
いつもの生活に戻っていくのです。
限界が来るまで。
その時がいつ来るのかは、
多くの場合、本人にもわからないでしょう。
自分でそれを知る感覚を消してますからね。
あるいは、薄々感づいていても、
どう対処していいかわからずに
何もできないまま、限界に突入していくか。
逆に言えば、
対処の仕方がわからないから、
気づかないことにしている、
とも言えるでしょうか。
対処できないのに気づいてしまったら、
余計に混乱しますからね。
基本的に感情解放ワークでやっていることは、
無関心という分離を解消し、自分自身に
再び愛の流れを取り戻していくことです。
私たちは、自分の手に負えない
「都合の悪い」部分を隔離するということを
長いことやってきました。
それは自分という個人においてだけではなく、
社会全体もそうした傾向を持っています。
手に負えないものに意識を向けることは
確かにひどく苦しいことですが、
その苦しみを引き受けて、
無関心ではなく心を寄せ続けることで、
そこには愛の循環が起こります。
そうした静かだけれど、忍耐強く
自身の責任を取った上でなされる行為は、
自分の罪悪感や落ち着かない気持ちを
収めるための衝動を動機とした行為とは、
全く違ったエネルギーを生むのです。
今、世の中に圧倒的に足りていないのは、
こういう愛の循環ではないか、
と思うのです。