昨日は感情解放ワークショップでした。
お集まりくださったみなさま、
ありがとうございました。
同じ回に集われる方たちは、しばしば
共通したテーマをお持ちなのですが、
今回は「自分の非を認められない」
「責任転嫁」などが浮上して
いらっしゃいました。
自分の非を認めるって、
嫌ですよね~。
認めてしまえばいい、認めるべきだ
って頭でわかっていても、
なかなかできない。
一番見たくない、やりたくないことに
直面し、選択を迫られることの苦しさは
相当なものだったろうと思います。
みなさんも、とてもお疲れになられた
ことでしょう。
一段階認められたとしても、まだまだ
その奥には抵抗の鎧が確かに感じられ、
見ていかなければいけないものがあるのだな~
と拝見されました。
それでも、認められて、自分が逃避していた
ものを受け止められると、実際に心がとても
穏やかに、軽くなるのは感じられます。
苦しいのは、抵抗しているが故のもの
なのですね。
そんなにも苦しいのに、何故にそこまで
ていこうしてしまうのか、不思議に
思われる方もあるでしょう。
でも、当事者になってみれば
容易くできないのも故あること。
非を認めてしまったら、
背負わなければいけない責任に押しつぶされて
しまいそうに苦しいとか、
周囲の人たちに見放され、非難され、
孤独に、そして惨めになってしまう
という恐れがあるとか。
非を認めれば、直ちにこうした痛みがもれなく
ついてくるわけなので、絶対にそれはできない
と突っ張るわけですね。
認めるには、こうした痛みに責任を取らなくては
なりません。それを決意するのがものすごく
恐ろしく感じるわけです。
でも、決してできないわけではないんですよ。
どんなに重たい責任であろうと、
絶望や惨めさであろうと、抵抗をやめて
深く受け止めれば、ちゃんと完了して
そこから再び立ち上がる力が湧いてきます。
決して押しつぶされて終わり、ではありません。
これを受け止める勇気をもって、
肚を決めれば必ず苦しみのトンネルを
通過して抜けることができるのです。
自身の日常の中で、
人に責任をなすり付けてしらを切り、
自分はやっていない、自分のせいではない、
悪いのはアイツだ!と言っている人を見れば、
ほとんどの人は、
何て汚い、見苦しい奴なんだろう。
恥ずかしくないのか。
どうしてそんなことができるんだ。
信じられない!あり得ない!人でなし!
とか思って非難の眼差しを向けるのでしょう。
でも、その見苦しいことをする要素が
自分の中にもあるのではないか、と
我が身を振り返る人がどれほどいるでしょうか。
あれは私ではなく、あの人のことだ、
と思いながら対岸の火事を眺めるように
見るだけでは、気づくことはできないのです。
この「私のことではない」という意識の持ち方は
何とも便利な防御法の一つで、
そうやって分離させることで、
醜いものの「汚染」から自分を守るのですね。
そうして無関心に、気付きとは対極の
鈍感さの中に自分を埋もれさせていきます。
みな頭ではわかっているのです。
見て、気づかなければいけないと。
そして改めるべきだと言います。
けれど、どこかその理解は生々しい痛みに
届くことはなく、上の空で唱える念仏のように
響くところがありません。
本当に実践にまで達していないのですね。
そして、頭でわかっている段階で止めていて、
決してその先に歩みを進めてはいない。
進めようというふりをするところで
時間を稼いでいます。
だから何度でも繰り返す。
もう金輪際こんな思いは嫌だ!
と言いながら。
私のお伝えしている感情解放ワークは、
ただの解放ワークではありません。
やっていれば楽になるからやる、
というものでも、本来はありません。
結果的には確かに楽にはなりますけれどね。
でもそれだけを求めていたとしたら、
ワークは必ず行き詰ります。
嫌なことがなくなるように、
良いことだけで自分の現実が満ちるように
やるというのでは、動機としては
浅すぎます。
現実に、「良いこと」と「悪いこと」が
あるのではありません。
そうではなく、
自身の真実に拠って立ったときに、
何をすべきなのか、何をすべきでないのかが
自ずから明らかになるのであって、
たとえそれで為すべきことが苦痛を伴うもの
であったとしても、結果的にはそうすることが
人生を調和と平安に導くことになるのです。
そう言う観点から「自分の非を認める」
ということを思ったときに、
心地良いこと=良いこと
嫌なこと=悪いこと
の方程式が成り立つのか。
何を己の在り方の軸にして生きるのか、
このワークでは、それを絶え間なく
問うわけです。
そういう在り方は、人生のあらゆるところに
表われてきます。
立ち居振る舞いから言動、雰囲気、
人間関係、仕事ぶり、恋愛、結婚、人望、
様々な運気やゴミの捨て方に至るまで。
自分を偽れば、その在り方がその部分だけ
ではなく、人生のすべてに及ぶことに
どれだけ気づいているのか。
自分を偽り、鈍くするほどに気づけなくなる。
本当に分からなくなるんです。
だから、私は痛かろうと思いながらも、
そこにみなさんの手を引いていくわけですね。
自分に向き合う作業をされている方は、
よくよく心に留め置いていただきたいと思うのです。