29日は満月の瞑想会でした。
お集まりくださったみなさま、
ありがとうございました。
ウエサク満月のエネルギーの下に
素晴らしいひと時を過ごさせて
いただけましたこと、
感謝申し上げます。(-人-)
継続してご参加の方々と初めての方
入り混じって色々なお話が出てきました。
本当にこの時期というのは、人生に様々な
揺さぶりを体験しながら、多くの方が
本当の望みや願いに目覚めて行っている
のだな~と感じたのですが、
起こっていることが一見、最悪のこと
に見えたとしても、大きな目で、
後から振り返ってみると、それが
とても重要な転機になっていたり
するんですね。
2012年12月のアセンションが騒がれたとき
から既に5年半の歳月が経ち、あれから
私たちは何を選択しながら生きて来たかな
と我が身を振り返ります。
それまで当たり前だった価値観が
もうこの先はどうやっても維持していくことが
できず、それによって支えられていた全てが
崩壊していく衝撃を味わった方も多いでしょう。
また、繰り返すパターンは何故なのか、
もがきながら問い続けている方。
あちこちぶつかり、けがをしながら
認めたくなかった、直面したくなかった
諸々に翻弄されている方。
そんな不器用な歩みの中でも、
宝物のような素晴らしい気づきを得て
鎧を落とし、どんどん輝いていかれる
方もあります。
人生は、うまくやるために生きてる
わけじゃないんだな、と
つくづく思います。
思い通りにならない状況の中で、
どんな選択をするのか。
どんな在り方ができるのか。
頭で考えて
「何だあれくらいでみっともない、
自分だったらもっとできるぞ!」
と思っていても、
実際のその状況で発揮できる
パフォーマンスは、そんなイメージからは
程遠いものでしょう。
ごく簡単な、わずかな行動すら起こせない
のが、実際のところだと思います。
だから、机上の論=実践
ではないわけです。
このことも、頭ではよく知っていても
そこにどのくらいの乖離があるかは、
実践した人だけが身に染みて理解します。
それが、体験に裏打ちされた知恵ですよね。
そう考えると、自分の中にどれだけ
本当に血肉となった知恵があるだろうか
と愕然とします。
何が本当に自分自身の核から出て来たもの
なのか。その見極めもさることながら、
出てきたものを信頼して受け取る勇気もまた、
とても大切です。
外からの価値観に毒されてしまうのは、
多分そこを信頼できないからでしょう。
確かに、これまでの社会で正しい、
これがスタンダードなんだと言われていたこと
とは大きく外れたものを示されることも
しばしばありますね。
え?それでいいの?でもそれで大丈夫なの?
って不安になってしまうような。
そこを信頼してぐっとそちらに舵を切って
いくことができるのかどうか。
それは、思うほど簡単じゃなかったり、
段階やタイミングがあったりもしますね。
自分自身の深いところからやって来るものを
信頼する学びって、どこまで行っても
チャレンジだな、と思います。
これをやろう!っていう勇気もあれば、
やりたくないっていう思いを認める勇気とか、
休みたいという声に従う勇気、
もうあなたには会いたくないと言う勇気
なんてのもあります。
なんだかんだの価値観や義務感という
言い訳をしないでいたとき、
それを実行したときに失うものへの恐れを
越えて、結果を引き受けて実行する
ことがどれだけできるか。
思うような結果でなかったときも、
さらに内なる声との対話を続けて
いけるのかどうか。
ここが一番きついところかも
しれません。
でももしそれができたら、
そこにものすごい恩寵がある。
きついんだけれども、
そのときに色々なものが剥がれ落ちて
磨かれるんですね。
けれども、それがとても痛い。
やすりで皮膚をこすられる、なんてもんじゃなく、
刃物で心臓の肉を削られるみたいに痛いわけです。
みんな、真理の探究とかきれいなことしか
言わない人も多いけれど、本当に
探究していていつもキラキラハッピーなんて
すごいな!って私は思ってしまうのです。
苦しいばかりが歩みではないけれど、
キラキラハッピーばかりが探究でもない。
それでも行くのか、と問われたときに、
深いところで自分はなんて答えるのか。
正解はありません。
ただ、自分の選択を引き受けるのみです。
あなたの選択に、恩寵がありますように。