最近、色々と考えさせられることがあって、
自分って一体どういう存在なんだろう?
と思いつつ過ごしているのですが、
リトリートから帰ってきて、
何だか自分の体のバイブレーションが
随分変わっているように感じています。
リトリート中は本当にきついことだらけ
だったのですが、その中で一つの選択を
したことの影響も大きかったのかも
しれません。
それは、多分私にとって一つのカルマを
解消する選択だったような気もしている
のですが、
以来、恩寵の感覚がものすごく
深くなっています。
普通に道を歩いているときでも、
天と地の間に在って、
神とともに歩んでいるような、
あるいは、神が自分の中を
流れているような。
そんな感覚です。
リトリート中に、あれだけ
受け取れなかったのに、
なぜこんな風に感じているのか、
自分でもよくわかりません。
美しい夕陽を見ながら、
恩寵とともに一歩一歩を行く歩みは
まるで祈りそのものでした。
何をしているわけでもなく、
ただ自宅に向かって歩いているだけの
この瞬間が、祈りになるのですね。
そんな風に歩いているとき、
かつてそんな風に歩いていた人生が
あったな~と、魂の奥から懐かしい感覚が
甦ってきました。
何をしているかが問題なのではなく、
ひとえに、どう在るか、なのだと
改めて感じます。
日々毎瞬、様々なストーリーの中で
右往左往する自分もいれば、
この体を流れる恩寵を感じながら、
それに身をゆだねている自分もいます。
どちらに意識をチューニングするかで、
随分と生きる世界も変わるでしょう。
後者にぐっと意識を合わせていったとき
どうなるのか。しばらく実験してみようか
なんて思っているのですけれど。
先月位から、自身の存在の根幹を
揺るがすような揺さぶりが続いていたり
するのですが、
それもこれも、改めて自分というものを
深く見ていきなさいと促すサイン
なのだと受け取っています。
今まで、こういう揺さぶりは経験が
なかったので、色々新鮮だったり
衝撃を受けたり、日々挑戦ですね。
本当に、さっぱりカケラもわからない
のですが、ただただ恩寵だけに
導かれている感覚です。
何が良いとか悪いとか、
こうなるべきという正解の形もなく、
今まで意味あるものとして認識されていたものが
打ち砕かれたような状態。
これがゲシュタルト崩壊というものなのか、
強固に意味づけされていたものが
今は自分の中でかなり崩壊している
気がします。
だから、恩寵が流れ込むスペースが
できたのでしょうか。
人間目線で望むことが叶うばかりが
良いことというわけでもないのかな。
どうにか体勢を整えようとする気も
今はなく。
この不思議な感覚とともに
今この瞬間在るだけでいいか、
という気になっています。
そう言えば、リトリートの最中、
私がずっと神に祈っていたのは、
あなたとともに、もっと深く在ることが
できるように、ということでした。
図らずも、思っていたのとは全く違った
方向からだけれど、今の状態って
私が願った通りになってるようです。
リトリートでは、これでもかというくらいに
当初望んでいた流れにはまったくなりません
でした。
もう本当にどうしようもないくらい、
どうにもならなかったのです。
でも、打ちのめされて帰ってきて、
どうやら神は私の祈りに応えて
くださったらしい、ということに
今気が付きつつあります。
一番強固な思い込みをガツン!と
崩壊させながら、この恩寵は
どこへ私を導くのか。
自分が崩壊する感覚というのは
初めてではないけれど、
毎回、それが起こるたびに
シフトがあります。
自分が崩壊するっていうのも、
悪くはないですよ。
みんな恐がるけれど。笑
コントロールできる範囲というのは、
やっぱりそれまでの自分を超えては
いないのでしょうね。
そういうプロセスでこそ、
本当に個我を超えたものに触れる
チャンスなのでしょう。
しばらく、なのかずっとになるのか
不明ですが、流れにゆだねてみることに
します。