信用と信頼って、似ているようで
全然違うものだと思いますが、
どちらをベースにするかで、
相手との関係性も全く違ったものに
なります。
以前、このテーマで記事を書いたことも
あったような気がするのですが、
一昨日の記事と併せて、又思うところを
書いてみます。
私はワークを誘導しているとき、
その方が内なる自分自身に対して、
どんな在り方をしているかを
必ずチェックしています。
内なる自分にそっぽを向いて、
まるで対話の意志がない状態でいたり、
恐る恐る横目で見てはいるけれど、
まだちょっと逃げ腰でいたり、
あるいはしっかりと意識を合わせて
対話できる状態が整っていたり。
その方がどんな状態にいるのかは、
本人への問いかけでは正確に捉えられない
ことがほとんどです。
なぜなら、本人はちゃんと向き合えている
という認識でも、実際の在り方が認識と
合致していないことが多いからです。
自身のハートに問いかけて、
答えがうまく取れない方は、
ほぼこのパターンですね。
このままワークを進めてしまうと、
頭で内なる声をねつ造してしまい、
ワークが正しく導かれないので、
まず、本当に内なる声を聴ける状態に
あるのかどうかをチェックするわけです。
で、最初の信用と信頼の話に戻りますが、
自分自身に正しく向き合えていない、
対話の姿勢ができていない人は、
自分に対しても基本、「信頼」ではなく
「信用」をベースに関係性を築いています。
信用というのは私の感覚でいえば、ほぼ
「条件付きの愛」と言い換えられると
思います。
つまり、「こいつはどれだけ使えるのか。
損をしない働きをするのか、自分の思う
方向性に対して、足を引っ張らず
役に立つだろうか」
という視点で見ているんですね。
だから「役に立たない。損だ」と判断すれば
即座に取引終了で、それ以上は見向きもしない
といった態度をとっていたりします。
自分の思うようにならないのだとしたら、
それ以上何をやったって時間の無駄、
損でしかないわけですから、
そこにいかなる意義も見いだせない
となります。
そう言う姿勢の方が自分と接点を持つのは、
「こいつは使える。得だ」
と思えるときだけです。
そういうときだけ親密になるけれど、
どれだけ親密になろうとベースが
「取引」ですから、信頼に似ているようで、
やっぱりどこかで絶対に「担保」を
求めています。
あなたの周囲の人間関係で、本来は
「信頼」であってほしいはずの関係が
「信用」関係である相手はいないですか?
これに対して「信頼」は、
担保を必要としません。
何も担保となるものがなくても、
相手を信じることができます。
この関係が、取引ではないからですね。
損とか得とかとは違う価値観のベースに
拠っているからです。
「信用」をベースにしている見方からすると、
何の担保もない「信頼」なんかしたら
損をするんじゃないか、そんなのは
狂気の沙汰だとすら思えるかもしれません。
でも、信用じゃなくて信頼だからこそ
育つ何かもあると思うんですよね。
ただ、だからと言って、何でもかんでも
信頼すべきだと言っているわけでは
ありません。それでは妄信です。
信頼することにも、
結果を引き受ける責任というのは
もれなくついてきますから、
その責任を意識していたら、
相手をろくに見ないで信頼する
ということにはならないでしょう。
ということは、逆に言うなら
全ての結果を引き受けて信頼するには、
自分に都合の良いところも
そうでないところも、
相手のあらゆるレベルを本当に
深く見なくてはいけないわけです。
自分をなかなか信頼できないという方は
総じて、自分を本当に深く知ろう
としていない傾向がある気がします。
見るのもうんざりするので、ろくに
知る努力もしないで価値がないとか
ダメだとか決めつけている方を
随分と見てきました。
そんな方の内なるカケラ君たちは、
もっとちゃんと僕たちを見てよ!
決めつけないで!
僕たちはそんなんじゃない!
と悲痛な叫びを発しています。
そしてそういう方の現実には、
ろくに知ろうともしないで勝手に
決めつけられて、深く傷つくような出来事が
繰り返し起きているのです。
信頼には、心情に深く寄り添うという要素が
不可欠です。
そうして初めて理解できることがあるし、
相手も、そうされることで何かが
変化していきます。
そこが、信用と信頼の決定的な違い
ではないでしょうか。
自分や他者との関係性をより血の通った
温かなものに育てていきたいのなら、
担保の要る信用関係から、
深く心情に寄り添う信頼関係に
シフトしていくことが大切です。
信頼する力を育てていくことで、
自分自身もまた、大きく成長していくでしょう。