感情解放ワークの中では、しばしば
自分が本当はどんな気持ちだったのか、
本当はどうしてほしかったのかを
相手に伝えるイメージワークをします。
あなたが私にそうしたことで(しなかったことで)
私はとても悲しかった。
悔しかった。
苦しかった。
淋しかった。
ショックだった。
不安だった。
本当は、
あなたに在るがままの私を認めてほしかった。
受け入れてほしかった。
大切にしてほしかった。
話を聞いてほしかった。
一緒に遊んでほしかった。
ただ側にいてほしかった。
私を見てほしかった。
などなど。。。
伝え、表現することのできなかった
そうした気持ちやニーズが、
私たちの心の奥にはたくさん沈んで
心を重く、苦しいものにしています。
ワークでは、そうして闇に葬って沈んでいる
気持ちとニーズを、本当は伝えたかった人に
伝える、ということをするんです。
その言葉は、言っても無駄、自分が傷つくだけ
と思って遠い昔に諦めたものかもしれないし、
それを言ってしまったら、相手は自分を
愛してくれなくなる、自分を見捨てるんじゃないか
と恐くて飲み込んでいた言葉かもしれません。
そうした言葉を、イメージの中で相手を呼んできて、
改めて、自分の言葉で伝えるわけです。
そんなことを今さらやったって、何の意味があるのか
と思われる方もあるかもしれません。
でもね、これが案外バカにしたもんでもなくて、
言えるとすごく気持ちが軽くなるんですね。
逆に、ただイメージの中で言うだけなのに、
たったこれだけのシンプルな言葉を言うのに
戸惑い、躊躇し、震えながら、中には
涙を流しながら絞り出すように言う方もあります。
簡単には言えない言葉だったりするわけです。
そういう、「簡単ではない様子」を見るにつけ、
この方はどれだけこの言葉を飲み込んで、
自分の心に蓋をし、言いくるめて納得させ、
あるいは嘘をつき、本当のことをすり替え、
無かったことにして切り捨てる、
ということをして生きてきたのだろう、
と、その方の生きてきた道のりを思います。
自分に嘘をついて真実を歪めて生きるには、
自分自身を歪めて相当な無理をしなければ
そういうことはできません。
苦しすぎるんですね。
でもそれができてしまうということは、
まず真実を歪める苦しさを感じる感覚を
遮断しなければなりません。
そうすると、全体的に在り方が歪み、
不自然になります。
人によってその歪め方はそれぞれなので、
不自然さも人それぞれですが、いずれにせよ
その人の本来の在り方ではなくなるわけです。
ピサの斜塔のように、右に傾けば左に、と
バランスをとって歪んだ形でどうにか立っている
というような状態になります。
そこから、本来の自分、歪める前の姿に戻すには、
歪めてきた順番の反対のことをやって、
戻していくことになります。
そうして段階を追って徐々に戻していくのですが、
これまで歪んだ状態で固定されていた感覚が
いつもと違ってくるので、多少戸惑うこともあります。
元に戻したからこそ、感じてしまうようになる
苦しみもあるでしょう。
けれど、これまでのように、自分の感覚を
麻痺させて何とも思わなかったときよりも数段、
自分を生きている感覚はあるはずです。
不快感はあるのだけれど、
あぁ、本当の自分に戻ってきた、という
どこか安堵する感覚があるんですね。
だからこそ、もっと自分を取り戻したい、
と思えるのです。
そういう感覚を取り戻し始めた人はみな言います。
今まで、どれだけ自分を無視してきたんだうって。
こんなにも苦しかったのに、それすらも
無視して感じないようにして生きてきた。
そりゃぁ辛いはずですよね。
その在り方をそのままにして、
どうやって幸せになろうとしていたのでしょうか。
その苦しみの原因は、ずっと外側にある
と思ってそれをどうにかして取り除こうと
してきたのでしょうが、うまくいきませんでした。
そうですよね?
苦しみの種は、自分自身の内側にあるので、
いくら外側をどうにかしても、消えないのです。
でも多くの人は、外側の何かをコントロール
することに躍起になります。
あの人さえ私の言う通りにしてくれれば。
もっと収入が上がれば。
もっと相手が物分かりが良かったら。
気の利く人だったら。
私のことをもっと愛してくれたら。
認めてくれたら。称賛してくれたら。
私はこんな苦しい思いをしないで済むのに
って、必死で頑張ります。
そういう人は、物事が自分の思い通りに
ならないことに、ものすごくストレスを感じます。
そういう状況は即、あの最も避けたかった
苦しみに直結してしまうからです。
苦しみを避けようとするほどに、
苦しみに縛られていることに気づきましょう。
苦しみから逃げることをやめて、
苦しみに向き直り、在るがままにそれを
生きたらいい。
そうしたら、あの恐ろしい苦しみの恐怖から
あなたは解放されます。
あなたが思うほど、それは恐いものじゃないし、
受け止められないものでもないのです。
本当はね。