今日は、何となく最近思うことを
つらつら書いてみます。
忙しない現代社会、そこはかとなく、
いつも何かに追い立てられるように、
今まで生きて来たような気がします。
一体、何に追い立てられていたのだろう?
と振り返ってみると、
小学校に入る前から、日常のあれこれや
習い事、学校に入ってからはさらにそれに
拍車がかかって色々人と比べられたりしながら
もっとうまくやらなければならない、
もっと上手にならなければいけない、
もっと「良い子」にならなければいけない、
もっとテストで良い点を取らなければならない、
もっと偏差値を上げて、先生に気に入られなければ
いけない、などなど
社会人になっても
もっと営業成績を上げなければいけない、
もっとスキルを上げなければいけない、
もっと稼がなければいけない、
もっと幸せにならなければいけない、と
その「もっともっと」は際限なく
あらゆる分野にわたって現れ続けてきます。
常に今この瞬間の自分を「これでいい」
と思って生きたことなど、
片時もなかったかもしれません。
ヒーリングの世界に飛び込んで、
意識の目覚めというものを求めても、
やっぱりそれは、この世界に生れ落ちて以来
ずっと続けてきた「もっともっと」の
延長線の歩みだったと思います。
この「もっともっと」は、
現代社会の骨の髄までしみ込んだ
プログラムのようで、
この社会で生きていると、
誰しもが、心の底では違和感を覚えつつも
それが人生の大前提のように
信じているようです。
ある分野で「もっともっと」が過剰になると、
その反動のようにその反対のものに
「もっともっと」の意識が振れて行きます
結局、私たちの「もっともっと」は
消えることなく、ただその対象を変えながら、
それ自体はずっと生きながらえているようです。
意識の目覚めをはじめとしたスピリチュアル
分野でも例外ではありません。
より深い目覚めた意識を実現するために、
より高い霊性のグルを求めてあちこち
でかけていったり、
より高いスピリチュアルな能力を
獲得するために、様々なセミナーに通ったり、
人間、どんな分野でも、そう違った行動は
取らないもののようです。
「より良く」生きようという志向性自体は
否定しませんが、あまりにもそれが過ぎると、
「より良く」生きた人生でないと、
生きる意味はないのかね?
と思ってしまったりします。
ただ生きていてはいけないのか。
生産性が無くては、生きる資格がないのか、
日々何かに努力し続けていないと、
その人生に価値はないのか、
「より良く」努力した人生は、
ただ生きただけの人生よりも
価値が高いのか。
「より良く」生きないと価値が無い
と、私たちはどこかでそう信じている
ところがあると思います。
生きることに価値を求めている、
と言えるでしょう。
価値は、意味と置き換えてもいいと思うのですが、
私たちは、生きることに意味が無いと
やりきれない何かを抱えているのかもしれません。
先日、あるアートの分野で活動している友人が、
とある講座の偉い先生から、クラスの最中に
アートの意味を語るように促されたところ、
「アートに意味なんてありません。
意味付けたら終わりだと思います」
と答えて場を凍らせたという話が
ツボにはまりすぎて大好きなのですが、
これ、アートを生きること、人生
と置き換えても成立するんじゃないか
と思いました。
人生を意味づけたら、
生きることに意味を求め始めたら、
その瞬間から生きること、
人生は変質し始めるんじゃないでしょうか。
今、そんな風に変質しまくった人生で
世が埋め尽くされているような気がします。
人生を意味付けたら、
その意味のために人生を生きることになります。
つまり、人生がその意味のための
「手段」になってしまうのですね。
たとえば、
私は成功するために生まれてきた
と自分の人生を意味づけたとしましょう。
その瞬間から、人生は成功するための手段
になるわけです。
だから、その人が思うような成功を実現
できない場合、「手段としての人生」は
無意味なものになってしまいます。
そんな風に考えてくると、
人生それ自体は、意味とか価値とかとは
本来、無縁なものなのではないか、と思うのです。
そんなものをゴテゴテとくっつけるから、
生きることや人生がひどく難しく
訳が分からないものになってしまう。
人生に付加価値なんて要らないでしょ。
そんなものをつけることに躍起になるから、
ただ生きることの幸せを失ってしまうのだ。
そんなことを考えていました。