自分自身に向き合う作業を続けていると、
あるとき、自分の望む方向に進むには、
思っていたよりもずっと大きな変革が必要だった
ということに気づいてしまうときがあります。
最初はそこまでするつもりはなくて、
ちょっと抵抗あるところを受け止めていけば
済むだろう、くらいに思っていたのに、
え~、そんなところまでやらなくちゃいけないの?
みたいなことになって腰が引けていく。
或いは、そこまでやろうと思ってないし、
ということで踵を返していく。
もっと簡単に済む方法はないの?と
他を当たってみたり、恐くなって
しばらく引きこもりその手の話は一切拒絶とか。
例えて言うなら、建付けの悪い襖をちょっと直して
滑りを良くするだけでいいと思っていたのが、
実は家の地盤が緩くなって全体が歪んでいて、
何となく気になってはいたけれどさほど問題にも
していなかったあれやこれが実はその一つの要因
に繋がっていたことが判明した。
さて、どうするか、みたいな話。
家だったら何とかしなくちゃいけないと
思うかもしれないけれど、見えない心の内側の話
だったらどうでしょうか。
気のせいかもしれないし、今でもそこそこ生活
できているからまぁ多少不具合があっても
それほど大事にしなくてもいいかも。
って思うかもしれません。
それほど必要性を感じないのであれば、
それも一法だと思います。
私自身は今まさにそれに取り組まなくちゃ
いけないよねってところに来ていて、
これまでの色々な体験、聞き得たことなどが
パズルのピースのようにそこに収束して
行っている状況です。
振り返ってみれば、確かに人を変え、場面を変えて
そのことをずっと指摘され続けてきていたのです。
でも私は、それが何のことなのか、
さっぱり理解できませんでした。
あんなにはっきりと、明確に言葉にして
言われていたのに、理解できなかったのですね。
それが、ある時突然、その意味がわかるのです。
その言葉の通りの意味なのだけれど、
「???」だったのが、「!!!」になる。
あなたにも、そんな体験ってありませんか?
理解できなかったときは、言われても
「何言ってるのこの人?わけわからんわ。
人のこと、勝手に決めつけないでほしいわ」
とか言ってその言葉も放り投げてましたけど。
まったくもって、必要な言葉でした。笑
それだけ自分が未熟だったわけですね。
師と仰いだレナードもそうだし、
その後に出会った様々な人たちも、
ずっと同じところを指していました。
エゴが脱落していくときって、
本当に苦しいものです。
宿便を排出するときにお腹が痛むのと一緒?
レナードのリトリートでは、本当にきつい思いをして
その後数か月はそのショックを引きずっていました。
それでも、そのことの意味が理解できなかったので、
変に納得させて収めてしまいました。
でも、やっとそのことの意味が分かったので、
その苦しみの受け止め方も見えてきました。
これは避けて通るべきものではない。
真っすぐに、中心を抜けていくべきものであると。
起こるべきことが起こる、というのは、
心地良いことばかりではありません。
正しいことが起こっていても、
身悶えするほどに苦しい状況に甘んじなければ
いけないこともあります。
苦しいからと言って、間違いではないのです。
その苦しみの中で、エゴが死んでいきます。
レナードは、エゴは決して死なないと言いますが、
それとは別のレベルで死ぬのだと思います。
そうして、生まれ変わる。
もう以前のエゴとは違うエゴになるのです。
そういう意味で、プンジャジの言う
「エゴは死ななければいけない」という言葉は
真実だと思います。
そして、そういうエゴになって初めて
レナードの言うエゴ本来の役割を果たすエゴ
になるのでしょう。
エゴが死と再生のプロセスを通っていない段階で、
エゴは死なないし、本来の役割があると理解するのは、
私はナンセンスであるような気がします。
人生では何度もエゴが死ぬ体験をする人も
あるでしょう。
私自身も、数年前に一度、今から思えば
あれがエゴが死んだ体験だったのだな、
と思う経験があります。
そのとき、エゴは「死んでしまう!」って
叫んでましたけれど、別に死にはしませんでしたね。
ものすごいエネルギーの変容は起こりましたけど。
でも、その後も別に普通でした。
今、今度はどんな風に死ぬだろうかと
模索中ですが、感覚を研ぎ澄ませてみれば、
抵抗はエゴからやってきます。
徹底的に、エゴが逃げたがっているものに向って
自分を捨ててみようと今実践中です。
体に痛い思いをしたときほど、
強烈でわかりやすくはないですが、
これがマスターできれば、
日常のあらゆる瞬間にエゴが死ぬことができます。
じっと、そのプロセスを見届けていくことにします。