ホームページに掲載させていただいている11月19日の感情解放ワークショップのご感想ですが、11月26日のページを作るときにうっかり上書き保存をしてしまったようで、ご感想が消えてしまっていました。ご指摘をいただき修正しましたので、こちらからご覧いただけます。ご迷惑をおかけし、すみませんでした。
さて。感情解放ワークで自分に向き合うことを続けていくと、これでもかというほど逃げているズルい自分、見たくない醜い自分というものを見ることになります。
他者の中に見たら、最も蔑み、激怒し、「お前は最低だ!」と叫び罵りたくなるようなその側面がまさに自分の中にあることを見てしまったとき、あなただったらどんな態度を取るでしょうか。
ショックを受けてさっと隠してしまうか、「そんなはずはない」と否定するか、衝撃と痛みを受け入れて、事実を認め方向転換をするか。
あなたがもしそんな側面によって傷けられ、迷惑をかけられた相手だとしたら、どんな風にされるのが一番「許せる」と思うでしょうか。そしてその在り方は、あなたが実際に取った行動と同じでしょうか、違っているでしょうか。
私たちは、自分が思うほど善良で格好の良い在り方をしていないものなのでしょう。誰しも、「私はあんなにひどくない!」と思っているのです。
「私だったら絶対にあんなことはしないわ!」と憤っていても、心の底にあるものは、「あんな人」と同じものを持っているのです。そして、魂の記憶の中では、まさに「あんな人」であった人生が間違いなくあります。
そのことに同意されるにせよされないにせよ、バッサリのその側面を拒絶する前に、もし自分の中に「あんな人」と同じものがあったとしたら、とイメージしてみてください。激しく拒絶が起こるほどに、それは何か重要なメッセージを差し出しているというサインになります。
あなたが思う以上に、そのことは人生の様々な面に影響を与え、行動の動機に深く根を張って存在しているでしょう。そして、あなたの現状の停滞を打ち破り、飛躍させるカギがまさにそこにあるのです。
やると言ったのにやらないで約束を簡単に放り出す隣人、責任を取りたくなくて嘘や誤魔化しで逃げ続ける友人、私のことをこれっぽっちも思いやることは無く、好き勝手に遊び回る恋人、いつも肝心な時に居留守を使う親などなど。
あなたの現実に現れる登場人物たちは、どんな「鏡の像」を見せてくれているでしょうか。
もちろん、素晴らしい側面を映してくれている人もいるでしょう。それもまた、あなたの一側面です。その人に対して、あなたはどんな思いを持っているでしょうか。近寄りがたい理想、自分とは遠くかけ離れた憧れ、側にいるとホッとするオアシスなど。
そうした思いは、自身のその要素に対してあなたが抱いている気持ちであり、態度なのです。ということは、自分なのに近寄りがたく感じていたり、実現不可能な憧れにしてしまっているとか、既に持っているのに持っていないと思い込んで、必死でそれになろうとしているという可能性もあるのかもしれませんね。
いずれにせよ、そうした自身の側面を見たときこそ、意識的に「自分がどう在るのか」を選択することです。
中には、「選択する」こと自体を恐れて選択しない人もいますが、無意識に流されたり選択しないのも、選択の一つですからね。どんな選択をするにせよ、それぞれに結果がついてきます。そして、今のあなたのその現状は、積み重ねてきた過去の選択の成果なのです。選択を避けて人生を生きることは、一瞬たりとも不可能であることを肝に銘じましょう。
真摯に自分に向き合い続けていくほどに、逃げ道はどんどんなくなっていきます。人生は、「それでいいのか?」と繰り返し問うてきますし、曖昧に誤魔化されてきたわだかまりたちは、「早く僕たちを解放して!」と声を大きくして軌道修正を迫って来ますから、真実から背を向けるほど、辛くなってくるのですね。
だから、逃げる人に取っては辛いいばらの道になりますが、肚を決め、勇気を出して軌道修正を選んだ人にとっては、癒しと感動と、創造をはるかに超えたギフトの数々を受け取る祝福の道となるのです。
「逃げ道がなくなっていいきます」と言うと、多くの方がたじろいで一瞬後ずさりするようなそぶりを見せるのですが、やっぱり逃げていたいのでしょうか。逃げずに向き合って、ギフトを受け取った方が余程楽なんですけれどね。
自分が曖昧にして逃げているということは、その影響はあなた一人に留まるものではありません。あなたの周囲の人たちの在り方にも歪みを助長させていくのは確実です。
たとえば、「私一人が我慢すればいいんだから」「私のせいでこんなことになったのだから」などと心の声を押し殺して不自然な在り方をしていたとすると、子供やパートナー、親などの家族全員の気づきの機会を奪います。あなたは、自覚せずに彼らの成長を妨げていることになるわけです。
それは、あなたの望みでしょうか。
私たちはときに、周囲に波紋を起こすことも厭わず行動しなければいけない時があるのだろうと思います。