真実は、万病を癒す妙薬であるのと同時に、
虚構を打ち砕く劇薬でもあります。
故に、誰しもが真実を求めているかというと、
口ではそう言っていても、実際は知りたくない、
と思っている人も少なくありません。
真実には口を閉ざす。無かったことにする。
黙って通り過ぎるのが安全だとすら
思っていたりするのです。
真実は、うわべだけの平穏を
打ち砕いてしまうので、
何よりも平穏を望む人には、
歓迎されないのです。
まさに、「招かれざる客」のごとく、
厄介者にしか見えないでしょう。
みんながそんなの嘘だとわかっている。
でも誰もそれを言わない。
それを否定したところで、
反発されたりかえって面倒事がわんさか
やってくる、となれば、スルーした方が楽、
となるでしょう。
けれど、本当に心からの平安や喜びある
人生を生きたければ、そのかき乱された状態を
越えていかなければならないことは
火を見るより明らかです。
その一時的な混乱を越えていく気力が
あるのかどうかで、
真実が劇薬に見えたり万病の妙薬に
見えたりするのです。
まぁ、いずれはその一時的なカタルシスも
誰しもが越えていくのでしょうけれど、
それをいつやるのか、ということの
違いなんだろうと思います。
あえてその手前の都合の悪いところにだけ
目をつぶって、それでもなおうまみを感じる
ギリギリのところで頑張る人が多いですね。
そういう選択も、アリかな、と
私は否定はしません。
ただ、自分の本当の気持ちを生きることを
求め始めると、その状態で目を瞑っていることは
非常に苦痛に感じられるようになります。
とても耐えられなくなっていくのですね。
それが本来の正常な感覚で、
そんなにも気持ちの悪いことを
何とも思わないのは、
それだけ麻痺させているということです。
一方で、感覚を取り戻していくことも、
恐れを感じるものです。
今まで、麻痺させることでどうにか
生きてきたのに、嫌な感覚や気持ちも
感じなければいけなくなってしまう
わけですからね。
あんな思いをするなら、
幸せや喜びを失ったとしても、
感じない方がいい、という選択をする人も、
実際、少なくありません。
それは、感じる感覚を開くこと、
真実を生きようとし始めた人、
誰もが感じる恐れであり、
通過していく関門ですね。
恐れが出てきたときは、
自分が何を恐れているのかを
明確にすることです。
恐いから見られない人が多いけれど、
一体何がそんなに恐いんだろう?
と見ていくと、案外恐くなかった
となることもよくあります。
誰か恐い人がいたとして、
その人に殺されるんだろうか?
殴られるんだろうか?
大抵の場合、そんなことはないだろうし、
(無いわけでもないケースもあるけれど)
じゃぁ、どうされるのか、と言ったら、
怒鳴られるとか、嫌味を言われるとか、
だったり。
さらに、何で怒鳴られることや
嫌味を言われることがそれほど恐いのか、
と掘り下げてみていくと、
その時に生じる嫌な感覚を感じるのが
恐かったりするわけです。
その人自体が恐いんじゃなくて、
本当はその感覚を恐がっているんですね。
ここに気づくだけでも、随分恐怖は
抜けることはあるし、さらにちゃんと
その恐さを表現し、感じて生き切ると、
もうほとんど恐くなくなっていきます。
そこまで解放出来れば、
あの恐かった人に会っても
全然何ともなくなります。
不安も同じですね。
漠然と不安だ不安だと思ってソワソワする
のではなく、何について不安を感じているのか、
具体的にしましょう。
そしてそれは自分に対処できないものなのか、
誰かに助けてもらったり、
対処する方法を身に着けたり、
色々対策をすることでどこまで解消できる
ものなのかをはっきりさせることです。
中には、その限界ラインを知ること自体を
避けようとする人もいますけれど、
知ることで道筋が立ちますからね。
それを曖昧にしておきたい人は、
多分まだ真実を生きようとしたときに
やってくる諸々のカタルシスを
受け止める準備ができていない
ということなのだと思います。
それが良いとか悪いとかいうことではなくて、
自分はそのときの混乱や痛みを感じることが
辛いのだ、嫌なのだ、という自身の本音を
受け止めてあげることです。
解放ワークで先に進みたい!と熱心な方ほど、
しばしばこういう本音を認めたがらない
傾向があります。
認めてしまったら進めなくなってしまう
と恐れるからですね。
でも本当は、認めないから行き詰って
しまうんですけれどね。
そんなにも辛かったんだ、嫌だったんだね、
ということを認めたところから、
自身の内側の分離が統合されます。
嫌だという本音を認めることで、
分離が解消されると、
その次の扉が容易に開くようになります。
嫌だという思いもほぼ消えたり気にならなく
なって、次に進めるんですね。
こうやって、不安や恐れを越えて、
真実を生きる自分になっていきます。
ひとつひとつのステップを、
明確に、具体的にして行きましょう。
スピリチュアルも、曖昧では立ちいかないところが
ありますからね(^^)