昨日は今年最後の感情解放ワークショップでした。冬至でもあったこの日、太陽が再びその輝きを強めていく転換点と呼応するように、参加された方々もまた、ご自身本来の輝きを取り戻して行かれたように思います。お帰りの際のお顔の晴れやかさは、本当に見ている私も清々しい気持ちにさせていただきました。ありがとうございます。
この日は初めて参加された方々のクラスだったのですが、午前の基礎クラスで出来事から差し出されている課題や核心の痛み、今の自身の状態や方向性を読み解いていったとき、苦しい感情を抱いているけれど、それを手放したくない、あるいはそれに向き合うこと自体に懐疑的であったり、という状態でした。
ここから、今日どこまでみなさんがご自身の感情に触れ、統合して行けるだろうかと思いましたが、実際に午後のクラスで実践を始めてみると、ご自身の深いところに溢れ出るのを待っていた愛や感謝の扉を開いていかれた方、最後の最後に長年触れることのできなかった恐れや痛みの気持ちを統合してかれた方など、その変容の光はまぶしいほどでした。
人が変容していく時というのは、これほどまでに美しい光を放つものなのかと、改めて人間という存在のとてつもない可能性に触れたような気がします。エゴがああしてこうして、とコントロールして為し遂げていくものをはるかに超えたものが目の前で起こっているのを拝見させていただくのは、本当に奇跡に立ち会うようなものです。
恩寵というのはいつでも、私たちが手を伸ばし、胸を開いて受け取られることを今か今かと待っているのだと感じます。それは、選ばれた人にだけ流れ込む特別なものなのではなく、常に隙あらば流れ込もうとしている、受け取られずにはいられない程に溢れているものなのです。
それなのに、私たちはどれだけその恩寵に抵抗して、流れ込まないように、受け取らないように必死になっているでしょう。そうしている本人にはそんな自覚はないのでしょうが、その扉を開いていくときの抵抗の激しさと言ったら、相当なものです。多くの方のワークを誘導してきて、つくづくそれを感じます。
恩寵を受け取ってしまった方がずっと楽なのに、変化していく自分が恐かったり、抵抗している自分を認めること自体、今の自分を否定するようでできないと頑張っていたりするのです。
そんな抵抗も、命の呼吸を届けてあげることで、少しずつ弛めていくことはできます。色々とテクニック的なものはあるのですが、いずれにせよ私がいつも感じているのは、解放や癒しは、常に恩寵によって起こるということです。
今この瞬間に、抵抗を止めて、恐れを癒し、深く傷ついた気持ちに触れていくことができるか否かは、テクニックを超えたところにあるもののような気がします。もちろん、それが全く必要ないと言っているわけではないのですが、実際に起こる変容が、既に人の手で計画して起こるようなレベルのものではないからです。
私たちの取り組みは、実は多くの見えない存在によって見守られ、導かれていて、私たちのほんの小さな決意が、宇宙を震わせるほどの祝福となって降り注ぐのが感じられるので、本当に奇跡に触れているのだと思わずにはいられません。
感情解放のワークでは、自分の最も触れたくない痛みに触れていくので、確かに恐かったり苦しかったりするでしょう。けれど、逃げることなくそれに向き合い、触れ、その声を聞いていく中で、私たちは探し求めていた力の源泉につながり、大きく変容していきます。そのとき、自身の内側からこんこんと愛やパワーが溢れ出てくるのを感じるのです。
そうなったら、もう外側の何かや誰かで自身を癒してもらおうとか、心の隙間を埋めてもらおうという発想自体がなくなります。自分の内側からパワーが溢れ満ちているのに、どうしてそんな必要性があるでしょう。
血眼になって探し求めている宝は、実は最も避けているものの中に在るというのは、人生の最大のパラドックスです。このことを体験し理解している人は、苦手やピンチを恐れることがありません。避けたいものは、実は「ここに宝が埋まっているよ」という明らかなサインと見えるからです。
とは言え、それを前にしてそれを越えていくことに弱気になったり懐疑的な気持ちが浮上してくることもあるでしょう。そんなときも、ただその弱気な気持ちや不安というエネルギーに呼吸で命を送っていけば、それらは弛んでいきます。
けれど弱気や不安にそのまま飲み込まれてしまえば、状況に「不可能な感覚」というフィルターがかかって抜け出せなくなります。だから、気づいたら「主体の意識」にポジションを修正しましょう。そうすれば、落ち着いて道を拓いていくことができます。
「現実は自分で作り出しているもの」という世界観に合意するならば、現実に対して受け身でいるのではなく、自分でどんな現実を生み出すのか、意識的に選択をして行くことです。
これから、ますますこのことが問われて行くことでしょう。