「生き急ぐこと」と「命懸け」

毎日、ブログを書く前には心を澄ませて、
内なる神に今日は何を書いたらいいだろう?
と聞いてから書き始めることが習慣に
なっています。

それでふと降りてきたのが
「生き急ぐ」というキーワード。

今日はこれについて思うところを
書いてみます。

実は昨日は割と時間があったので、
ゆっくりすごしていたのですが、

その一方で、こんなにのんびりしていて
いいのかな?とどこかに気を急かせる思いが
湧いて来たりしました。

このままではいけない
というこの思い。
根強く残っているものですね。

常に何か「やるべきこと」を探し、
せかせかと動き続けていないと
不安になるのです。

そうして今この瞬間を味わうことなく、
常に意識は未来の不安と過去のやり残しや
不足していたことの思いでいっぱいに
なっています。

そんな、「未来における理想の達成」という
幻想を求めて生き急ぐような生き方を、
もうどれだけやってきたのでしょう。

20代のころ、生きるのがとても辛くて
早くこんな人生が終わればいいと
毎日思っていました。

そんな私を見て母は、
「そんなに生き急がなくていいんだよ」
と言いました。

当時の私には、とても受け入れがたい言葉
でしたが、今思えば親心ですね。

辛い時ほど、すぐにでもこんな状況を脱出したい
と思うので、早く早くと意識は今ここから
逃げていきますが、

そうやってこの人生を早く終えても、結局は
次の人生でまた同じことをやる羽目になります。

スピリチュアルの世界に入って
自分自身や他の人たちのたくさんの
人生の記憶を見てきて、

未完了のテーマはそのまま、時代を変え
場所を変え、アイデンティティを変え、
性別も身分も状況を変えて、
そっくりそのまま繰り返しているのを
嫌というほど見てきました。

人生をまたがずに、今生でそういうことを
繰り返している人もたくさんありますね。

だから、生き急いだからどうにかなるって
ものでは、断じてないのです。

死ねばこの苦しみから逃れられると思う人も
世の中には少なからずおられるでしょうが、
様々な魂の記憶を見てきた経験から言えば
それはあり得ない、と私は断言しますね。

逃げ切り完了は、ないのです。

苦痛からの脱出を試みている間は、
逆にその苦痛からは脱することは
できないでしょう。

辛い出来事は、在り方を方向転換させるための
気づきを促すサインです。

気づきもせず、応答もされないメッセージが
そのまま終わってしまうということは、
この宇宙にはありません。

本当にこのあたり、宇宙は厳密です。

人によって、この人生の苦しみを
何かに命を懸けることで昇華させ、
超えていこうとする人もあります。

命を懸けられるものを探して彷徨う人も
ありますね。

この言葉は誤解される要素を多分に
含んでいるように思うのですが、

そのために「命を捨てる」ってことではなく、
「それとともに生きる」ことのような気がします。

華やかに命を散らして終わりっていうのとは
明らかに違いますね。

奥行のない一時の高揚感で放たれる
エネルギーなんて、知れています。

ノリでパ~っと派手なことをやるけれど
持続しないですぐにヘタるようなもの。

本当に命を懸けるというのは、
そこに「永遠の命」を見ていなければならない。
だから、命を粗末に扱うことではない
と思うのです。

「命懸け」が苦痛からの逃避、依存、代償行為
から発していないか、よくよく見なければ
いけません。

話はちょっと変わりますが、
かつて、この国のために命懸けで戦い、
散って行った多くの魂たちがありました。

そこには色々な「命懸け」があったと思いますが
私が言う「本物の命懸け」も、間違いなく
あったと思うのです。

彼らは、自分の後に続く者たちの中に
「永遠の命」を見て、そこに己の誠を立てた
のかもしれません。

彼らの誠は、今もこの国の基盤に
とてつもなく太い柱として突き刺さり、
今も起動し続けているエネルギーとして
確かに私は感じることができます。

これほどのエネルギーを立てた
彼らの「命懸け」は、計り知れません。
これこそが本当の「人柱」なのだろう
と思います。

このようなケースは、もう個人のレベルの
エネルギーではないですね。

時代のエネルギーを全身に感じながら、
熱くその奔流と一体となって人生を駆け抜けて
行っただろうと感じるのですが、

永遠に生きる覚悟がなければ、
真の命懸けではあり得ない。

だからこそ、命を容易く粗末にしては
ならないと思うのです。

幕末から明治を生きた文人の正岡子規は、
「病床六尺」の中でこんな風に言っています。

余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。「病床六尺」

いかなる場合も平気で生きていることが
できるくらい、命の本質に根差して
生きていきたいものだと思いました。

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