感情解放のワークのセッションで掘り下げをする時に、しばしば見かけるあるパターンがあります。それが、何か問いかけをされて分からなかったとき、なかなか「分かりません」と言えないということです。分からなくてもワーク自体には支障はないのですが、「分からないことはいけないことだ」という思い込みが、どこかで深く影響しているように感じます。
私たちは幼いころから学校のテストも減点法でしたし、勉強でも人付き合いの中でも、「分からない」ということは、みんなから置いて行かれる、仲間外れになる、親や先生から責められる等のことがあるので、良くないことという認識が根深くあるのだろうと思います。
それに、ワークでもし問いかけに応えられなかったら、解放が進まずずっとこの苦しい状況が続いてしまう。それは何としても避けなければならない。だから、分からないということはあってはならない。何としても答えなければ。でも分からない。分からないけれど、分かったことにして先に進めよう。そんな風に思うのでしょう。
いずれにせよ、あやふやにしたまま形だけ先に進めようとしても、早晩ワークは行き詰ってしまいます。誤魔化した分だけ、元の位置に戻ってやり直さなければならない上に、誤魔化しが起こる心理的な構造に改めて対処しなければならないので、早く先に進みたいという思惑とは裏腹に、時間で言えば余計にかかってしまうでしょう。
「分からない」と素直に言えないことの奥には、かつて分からなかったことで戸惑い、困惑し、悲しく辛い思いをした経験があります。そうした体験は、触れたくない出来事として「恥」などの烙印を押して心の奥深くに封印されてしまうのです。
もし分からないことで辛い体験をしたことがないか、あるいは十分にその心の痛みが癒えていたのだとするならば、分からないことがいけないことという思い込みもないので、すんなり「分からない」と言ってサポートを受けたり周囲の人に助けてもらったりということが抵抗なくできるでしょう。
私自身、幼い頃はとても鈍い子供だったので、一度で言われたことが理解できることはほとんどありませんでした。勉強も運動も、学校生活のあらゆることにすんなりと適応することができなかったので、いつも困惑し、戸惑い、混乱していたと思います。
だから今でもワークをすると、そのときの途方に暮れる気持ちが浮上してくることがありますが、少しずつ受け止めてきているので、何か困ったことがあった時に浮上して来る感情のエネルギーも、大分小さくなったと思います。その分、状況をしっかりと見て必要な行動が以前よりも取れるようになっているという実感はあります。
このことを逆に見るならば、自分がこうした困惑した気持ちを切り離して封印し、見ないことにして先に進もうとしているので、鏡として現れる現実も、困惑した自分を置き去りにして先に進んでいってしまうというという状況を引き寄せてくるのです。
自分がそういう気持ちに対して、面倒臭がらずに温かい気持ちで接していたならば、現実もそのように温かく「できないでいる自分」を導いてくれるでしょう。
頭でこれを理解しても、現実はなかなか変わっていかないという方は、自分が自身にどんな態度を取っているかに気づいておらず、自覚がないので軌道修正もされていないということなのだろうと思います。
ワークは、頭で理解するだけでは何も変わりません。実際にどれだけ実践したのかが、結果のすべてです。
「分からない」と同じくらい、「できない」ということにも私たちは抵抗を示すものです。その理由も、「分からない」のケースと同じです。
自分ができていない、分かっていないと認めることは、どんな分野であれそれに携わった時間が長い人ほど、抵抗が大きくなる傾向はあるかもしれません。こんなにやってきてベテランと言ってもいいくらいの域なのに、できていない、分かっていないなんて、それまでの自分の取り組みが全否定されるようなショックを受けるのです。
けれど、ワークにおいて本当に実践が詰まれているのなら、いかなる段階であろうとも、自身の真実を認める選択に躊躇はないはずです。
ワークは常に破壊と創造の繰り返しです。積み上げてきたどんな成果もプライドも、根底から破壊され、その灰塵から全く違った新たな自分が生まれてくるという、永遠に続く死と再生のプロセスなのです。
脱ぎ去られて行くべき自分像にしがみつくことは、次にやってくるはずの新たな自分の誕生を止めてしまいます。
ワークでガッチリはまって身動きが取れなくなっている人の傾向を見ると、積み重ねてきたものを脱ぎ去ることができないという、ある種の「プライドの高さ」があるような気がします。プライドが崩れたときの喪失感に耐えられないと信じているのですね。そのプライド自体が、自分をこんなにも苦しくさせている元だというのに。
一度でもこの破壊の炎を潜り抜けた経験をすると、もう破壊を恐れなくなります。それは、無に帰すこととイコールではないということを身をもって知るからです。
「自分がなくなってしまう」と信じているその「自分」とはいったい何でしょうか?「自分がなくなった」ことすらも見ている自分がいるというのに。
破壊の炎を潜り抜けていく勇気という恩寵が、みなさまのうえに降り注ぎますように。