スピリチュアルなヒーリングワークでよく
ブロック解除ってありますね。
進みたい方向に無意識、意識的に
欠けているブレーキを外すっていう
アレです。
私のセッションでもまぁ似たようなことを
やっているのですが、
ブレーキって言うのは邪魔者のように
捉えられているようですが、根本的には
自分を守っているものです。
けれど、掘り下げをして行くと
その防御のレトリックが破綻していたり、
勘違いから来ていることが
よくあるんですね。
私のセッションでは掘り下げていく過程で
そういった認識の間違いや破綻を
意識に浮上させて、
こうなっていて実際それはうまくいっていない
ようだけれどどうしますか?っていうのを
改めて選択し直してもらうということも
やったりします。
たとえば、自分の本当のギフトを
全開にしてしまったら、自分がそれに
飲み込まれてしまって身がもたない
と思っているケースもよくあります。
だから、そこそこブレーキをかけて
バランスを取ろうとしている。
けれど、そもそも自分のギフトを全開に
したら自分が飲み込まれてしまうっていう
理論自体、それは本当なのでしょうか?
自分がギフトを存分に使えるという状態は、
パワーに飲み込まれることと同義ではありません。
パワーを全開にしても、それを支えるだけの
意識の力が発揮され、健全にコントロール
できる状態になることであり、
暴走するパワーに駆り立てられて
自分が壊れてしまうというその思い込み自体が
そもそも正しくはないのです。
そのように健全にギフトを発揮できる状態
からの行動と、恐れを持っているがゆえに
自身に制限をかけて行動するのとでは、
全く違った表現になるのではないでしょうか。
あるいは、愛を受け入れたら、
自分が女々しく、弱くなってしまうので
愛を表現するのも受け取るのも
セーブしているというケースもあります。
では改めてその考えは本当なのか?
と問い直してみると、すぐにそれは
誤りである、とわかることです。
愛の表現にも色々あり、すべてに深い
安らぎをもたらす愛もあれば、
ときに人間目線では非常に厳しく感じる
愛の表現もあるわけです。
けれどそれらはいずれも「愛」であり、
何ゆえ正反対のように見える表現が
同じく「愛」だと言えるのか。
その答えにこそ、愛の本質が表れています。
そこを取り違えて、あやまった在り方を
選択していたりするのですね。
当たり前だと思っていた前提を疑い、
改めて問い直した時に、
本人も容易に誤りに気付いて、
その瞬間から在り方を軌道修正できることも
少なくありません。
前提だから普段それを問い直すことは
あまりないことでしょうが、
結構これは大きな世界観の転換に
つながったりして、面白いものです。
ものすごく外すのが難しいブロックだと
思っていたら、案外するっと抜けてしまった
って拍子抜けすることもありますね。
もちろん、気づいたけれどそこに
諸々の不安や執着などの感情的な要素が
絡んでくると、ちょっとプロセスを整理しつつ
捌いていくのが必要な時もありますけれどね。
誰しも、何かしら自分を守るための防御機構を
持っているものです。
それを単に、進みたい方向に進むのを
邪魔する厄介者と捉えているうちは、
却って自分で解放のプロセスを複雑に
してしまうでしょう。
それを作り出しているのは他でもない自分であり、
自分が必要としているからこそ、
それはそこに今この瞬間も存在しているのです。
そうでなければ、既にそれは消え去っているはずです。
つまり、それがそこに在るということは、
自分がそれから何らかのメリットを今も
享受し続けている、という明らかな証なのです。
なぜ必要としているのか、勘違いなのか、
自分が何かから逃げているのか。
そこを掘り下げて、それぞれの対処を
すればいいわけですね。
いずれにしても、解放・統合のプロセスは、
明確に意識に浮上させて選択すること
の連続です。
常に常に自分はどう在りたいのかを
主体性をもって選択し続けるんですね。
そうするほどに、言い訳も責任転嫁も
できなくなっていき、逃げ道はなくなっていきます。
本当に自身のギフト、パワーを発揮して
自分らしく生きるって、そういうこと
なんですよね。
責任を取らずに好き勝手に生きて
何もわからない子供が危ない武器を振りまわす
ようなことではないのです。
責任とパワーは常にセットです。
あなたはこれを引き受ける準備が
できていますか?