先日から何だかちらちらとあまり心地良くない
ある気分が浮上していて、やだな~って
思ってたのですが、
取り組む暇もなく放置していたら、
あらぬ思考を引きずり出してきたので
改めて対峙して見ることにしました。
それは、この社会で生きていくことへの
そこはかとない不安感、心許なさでした。
諸々の現代日本の様相を見て、
日本は既に法治国家ではなくなっているのかも、
みたいな思いとか、出生率もこんなにも下がった
この国でこれから生きていけるのだろうか、
というような思いが湧いてきて、いつの間にやら
不安に飲み込まれていました。
現状では、個人的にはそれほど悪い状況は
ないのですが、ひょっとしたら集合意識的なものも
拾っていたのかもしれません。
まぁ、それがどこ由来であろうと、
拾ったなら拾ったなりに、自分がその
波動域にチューニングしてしまっている
わけですから、対処しなければずっとその領域の
夢を見続けることになりますね。
それは嫌だったので、
まずは感情解放ワークのセオリーにのっとり、
飲み込まれている感情のエネルギーを
体で捉えるところから始めてみました。
最初はずしッと来る結構重いエネルギー
でしたが、命の呼吸を送っていくと、
浅いレベルのものはすっと抜けて行きました。
飲み込まれているときは、未来に希望なんか
持てない世界に見えるのですが、
重苦しいエネルギーのベールが取れると、
それほど絶望的な世界には見えません。
いつもながら、自分の被っている
フィルターの威力をしみじみ思います。
気付かないと、それが真実だと
信じ込んだまま、この人生を捉え、
構築してしまいます。
重苦しさを背負ったまま、希望の見えない
世界に映る眼鏡をかけたままだと、
思考がネガティブな思いをエンドレスで
呟き続けていたりしますからね。
それも、ある意味自分にかける呪い
みたいに効力を発揮して、
自身を無力な被害者や乞食のような存在に
錯覚させてしまいます。
本当は無力でも何でもないのに、
自分には何もできないと信じてしまって、
欲しいもの、必要なものを外から
恵んでもらわなければいけない存在だと
自分で信じ込んでしまったりするんですね。
たとえるなら、本当は力を持っている王様なのに、
お前は無力で哀れな乞食だって言われ続けて
その内に本当にそれを信じ込んでしまい、
自分が王だったことを忘れている人のようです。
昔、レナードのリトリートで乞食のワークというのを
やったことがあるのですが、なるほど、人は
こんな風に自分を乞食にしてしまうのだな、
と思ったものです。
私は、クライアントさんたちには常々、
外側に力を求めるのではなく、
自分自身と対話して、しっかり内側につながり、
そこから湧き上がる力や導きを軸とするように
とお伝えしています。
誰かがこう言ったからという言葉をそのまま
鵜呑みにしたりせずに自分でしっかり吟味
すること、
誰かにエネルギーをもらうとかではなく、
セッションは自分の内側と繋がるたことを
助けるものであるように、と。
依存するのもされるのも、辛いことですし
不健全ですからね。
私がお伝えしてきたものの真意がどれだけ
伝わっているか、長く通ってくださっている
みなさんの様子を拝見しながら、
伝える自分の未熟さを思うときもあれば、
たくましくご自身の歩みを進めていらっしゃる
様子を拝見しては、ちゃんと伝わっていた!
と嬉しく思うときもあります。
接する方たちの姿は、まさに私自身の鏡であり、
今自分がどんな在り方をしてどんな発信をし、
どう受け取られているか、というのが
そのまんま表れていて、本当にこれまで
たくさんのことを教えていただきました。
中でも、人間的な情に引きずられて
変に甘くするのは互いにとって百害あって一利なし
ということを教えていただいたことは、
今でも私にとって、この仕事を続けていくうえで
大切な学びであったと思います。
頭でわかっていても、これを体現するときは、
ときに断腸の思い、ということもあります。
でも、自分の心の隙を断つべき時を逃しては
いけないのです。
そうでないと、グズグズになってしまいますから、
そこから立て直すのでは、
相手にとっても痛みが大きくなり大変です。
そういう意味で、ときに、鬼になることを
躊躇してはいけないと思っています。
何が本当に相手のためになることなのか、
目先の甘言でお茶を濁すのは
自分の弱さ以外の何物でもありません。
自分が嫌われたくないから、
失いたくないからそうしてしまうのでしょう。
けれど、そういう甘さ故に、
後に避けていた現実を引き寄せ、
嫌われ、失うことになってしまうのです。
自分にも、相手にも良いことはありませんね。
自分も他者をも、乞食にしてしまってはいけません。
無力で哀れな乞食の幻想を覚ますように、
私自身、さらにさらに、精進していきます。