良かれと思ってやったことが
裏目に出るってこと、
あなたも経験したことがあるのでは
ないでしょうか。
そういうときに、ショックとともに
良いと思うことを実行することを
次からはやらないようにしよう、
って思ってしまう人が多いんですね。
そもそもなぜ思いの行き違いが生じたのか、
そこへの考察を全くしないまま、
行動の部分だけをやめてしまうのって、
ただの蓋じゃんって私は思ってしまいます。
良かれと思って、って言うけれど、
それって一体「誰にとっての」
良かれ、なんでしょうか?
もちろん、相手のためよって
言うかもしれないけれど、
本当にそうでしょうか?
たとえば、
自分の子供が何かお行儀の悪いことを
してあなたが叱ったとします。
傍から見れば、正当な躾と見えるところも
勿論あるでしょうけれど、
そこにあなた自身の
「子供がそんなことをしたら親の私が
何を言われるかわからない」とかいう恐れが
あったりとか、
「周囲の親御さんたちから
仲間外れにされてしまう」とか、
あなた自身の中に在る諸々のざわつく気持ちを
収めたい、そういう嫌な思いをしたくない
という動機から叱っているとしたら、
結局その行為は、本質的には
あなた自身の都合からのもの
ということになります。
もちろん、社会的に調和して生きるには
躾は大事です。
ただ、自分の中の動機が
本当にこの子がみんなの中で親しく受け入れられ、
楽しみながら生活できるように、という願いから
叱るときと、
そんなことしたら私が恥をかくじゃない!
って言う動機から叱るときとでは、
表面的に言っていることは同じであっても、
伝わっているメッセージは全然違うもの
になっているんじゃないかな~と思うのです。
あなたのためを思って言っているのに、
何でわからないのよってイライラするのは
多分、自分の都合から言っていることが
ほとんどなんじゃないでしょうか。
自分の思う通りにならないと、
私の気持ちが穏やかでいられない。
子供が志望校に受からないと、
旦那がお酒の悪癖をやめてくれないと、
親が不摂生な生活を改めてくれないと、
私が不安になるじゃない。
結局私に負担がかかって来るでしょ。
大変な思いをするのは私なんだから。
だからそれ、やめてくれる?あるいは
絶対にそうしてくれないと困るんだから。
って思ってるわけですよね。
もう、私をイライラさせないで。
不安になるのはもううんざり。
私の平穏な生活はあなたたち次第なの。
ってこと。
でもそれは、
感情解放ワークの視点からだと
責任転嫁なんですよね。
そういう人の言い分もよくわかるし、
世間一般からはその通りよねって
共感されるとは思いますが、
自分の幸せはあなたたちの在り方次第
って言ってる時点で、既に自分を幸せにする
責任を相手に放り投げてますよね。
そうすることで、あなたは自分を
ひどく無力な存在にしてしまっていることに
気づきましょう。
自分の幸せは自分で創造できるし、
その力があるんですから。
そもそも、自分を幸せにできるのは
根本的には自分しかいません。
誰かがあなたの幸せを請け負うことなんて
不可能なことです。
でも、世の中ではパートナーや
親や会社や何かに自分を幸せにする責任が
あるのが当然だと思われている風潮も
確かにありますけれどね。
自分が不安になったりイライラしたり
するのなら、
ちゃんと自分でその感情に向き合い、
丁寧に統合していくのは自分の責任です。
相手に行いを改めることを求める前に、
自分の責任を果たしましょう。
そのうえで、改めて相手に向き合ったとき、
最初の感覚とはあなたの感じ方はずいぶん
違ったものになっているでしょう。
もっと相手に寄り添って話を聞くことも
できるようになっているでしょうし、
本音で話し合って、互いに納得のいく調和的な
解決策を見出すこともできるかもしれません。
また、
本当にサポートが必要な部分を分かち合って
助け合うこともできるでしょう。
その人が今現在、そのように在る、ということは
構造的に理由があってそうなっています。
だから、いかに不健全に見える在り方でも、
見えているところだけを変えればいい、
というものではないんですね。
その裏の構造の部分に対して、
あなたは相手に変わることを要求するのなら、
どれだけのサポートができているかと
考えたことがあるでしょうか?
ひょっとしたら、相手のその態度を
作り出している要因の一つが
あなた自身かもしれないと言うのに。
あなたが悪い、と決めつける前に、
そこに見るべきもの、気づくべきところが
もう何もないのかどうか、今一度
振り返って見ると良いでしょう。