明日14日はスーパームーンだそうです。近年で月と地球の距離が一番短かったのが2011年で、エクストラスーパームーンに該当していました。明日の満月はそれよりも短い距離で、さらに大きな満月になります。このスーパームーンは来年はなく、2018年元旦までのお預けになります。
明日はサロンでも瞑想会を行います。様々ホログラム(神性幾何学)を使って、浄化と癒し、シフトを意図していきます。まだ少しお席がございますので、興味のある方はぜひどうぞ。詳細はホームページへ。
さて。ときに私たちは、責める相手や自身の罪を転嫁する対象を必要とすることがあるものです。
あまりにも受け止めることが辛い事実があると、私たちは「それは私じゃない。私のせいじゃないんだ」と、そのことと自分を切り離そうとします。自分と関係ないことなら、あののしかかるような重苦しさを背負わないで済むからです。
そんなときに、人から「君のせいじゃないよ」と言ってもらえると、少しは心の重荷が軽くなったように感じられるでしょう。
けれど、もし逃れようもなくダイレクトにその重荷を受けてしまったら、とても正気でいられない、耐えられないかもしれません。
そう感じた途端、私たちは逃げ道を探します。誰かのせいだと責める相手を探し、それに自身の心の重荷を転嫁することで自分を守ろうとするのです。
この構図は、明らかな責任転嫁だけではなく、誰が見ても相手が悪いということについても当てはまります。
どういうことかというと、感情の基本的性質に、「社会的、法的、道義的責任は別として、私たちは自身の内に起こった感情の責任を100%自分で取ることができる」というものがあります。つまり、自分の心の重荷の責任は、事の経緯とは別に、自分自身で取らなければならないということなのです。
この部分はなかなか理解が難しいところだと思いますが、詳しくは拙書「感情解放ワークブック」で解説しているので、もしよろしかったら参照なさってみて下さい。
誰かや何かを責めることで崩れ落ちそうな自分を心を支えているという部分が、誰にでもあるのではないかな、と思います。
決してそれが心地よいわけではないのですが、痛みの受け止め方が分からないので、そうでもしていないと居られないのです。
けれど、これはどう見ても責任転嫁の構図です。これがあると、鏡の法則を通してあなたの現実に、自身の痛みを転嫁して来る人が現れるでしょう。鏡の像は、あなたがしているように、あなたに対してしてくるからです。
そういう人が現れると、あなたはとても腹立たしく、「どうしてアイツは人のせいにばかりしてくるのだろう?自分の責任をしっかりと受け止めるべきだ。それができないなんて最低だ!」と怒りを感じ、激しく反応するわけですが、実はその相手こそ、あなた自身の姿だというわけです。
責任転嫁する人の姿は、どんなにか醜く、ズルいものに見えるでしょうか。けれどもしあなたが最も怒りを感じ、拒絶するその姿をじっと直視することができたら、深い気づきがやって来ます。
頭で「これが自分の姿だ」と納得しようとするのとは全く別の次元で、否定のしようもなく、あれはまさに自分自身であるということが思考を超えたところではっきりと理解できるのです。その瞬間、あなたはあんなにも腹立たしかった相手に反応することは無くなるでしょう。
このように深い気付きが起こってきたときに大切なことは、気づきに留まり続けるということです。
こうした気づきを体験する人自体、そう多くはないのですが、気づきの衝撃に耐えかねて、途中で思考で考え始めてしまう人が多いのです。すると、せっかくやって来た気付きによって起こっていくはずの変容が、そこで止まってしまいます。
見つめ続けることです。自分自身の真実の姿を。すると、走馬灯のように自身のそうした側面が次々に浮かんでくるでしょう。あのときもこのときも、自分はそうしていた、というのをただ淡々と見つめます。
このとき、あなたの中では大きな変容が起こっています。エネルギー的にも、かなりの変化を体験するでしょう。ヒーリングという概念を超えた、はるかに大きなシフトが起こっているのです。それを、起こるがままに起こさせていきます。
この変容が起こると、もうあなたは責任転嫁する人に反応することもなくなれば、自分が責任転嫁することもなくなっていくでしょう。その変化は段階的に起こるかもしれませんが、「しないようにしよう」と自分を戒めてやらないようにする状態ではなく、根本的にやらない人になっていくのです。
あなたの現実にあなたを苦しませる人が現れるのは、あなたを苦しませるためではありません。単に、あなた自身が自分にこんなことをしているよ、と教えるためです。
自分のやってることをはっきりと自覚し、方向転換できたなら、そうした人たちは自分の現実から去って行きます。ただそれだけのことなのです。
ここが分かってくると、人生の意味合いはまるで違ったものになるでしょう。