誰しも、自分の命は尊厳を持って
接してほしいと望んでいると思います。
不当に踏みにじられれば悲しいし屈辱だし
怒りを覚えます。
そして、傷つけられた尊厳の回復が
なされるまで、その気持ちは決して
晴れることはないでしょう。
セッションで様々な存在の人生模様
(人だけではありませんが)を見る
ことがありますが、
しばしば、不当に尊厳を傷つけられた命の
悲しいストーリーに接します。
濡れ衣を着せられたり、
ひどいやり方で利用されたり、
徹底的に搾取されたり、
様々です。
そうした名もなき者たちの悲しい思いは、
時間の流れに埋もれ、いつしか
忘れ去られていきます。
けれども、人々がそれを忘れても、
その思いが消えることはなく、
様々な形で歴史の闇から幾度となく浮上し
無念を晴らそうとする動きとなって
現れてくることがあります。
そういう動きを隠したい側からしたら、
何度浮かび上がって来ようとも、
絶対に押さえつけて再び沈めてくれよう!
と躍起になるのですが、
そのために有形無形の封印を
周到に張り巡らせていたりします。
大きくは国の歴史、民族の歴史から、
家系や個人的なストーリーまで、
そんな話は枚挙に暇はありません。
エネルギー的に見れば、
嘘で歪められた事実というのは
やはり不調和で歪なので、
とても不安定なエネルギーの気流を
巻き起こします。
そういうフィールドの中にいる人々は、
その影響を潜在意識レベルで受けて
何かと心を正しく保つことが
難しくなります。
いつもどこか心が不穏で、
ちょっとしたことでいがみ合ったり、
不正に流れたりしがちなんですね。
家系の中でそういうことがあれば、
その影響が子孫に及ぶという実例は
誰しも体験していたり聞いたことが
あるのではないでしょうか。
だから先祖供養が大事と言われるのですが、
私自身、セッションの中で出会った
様々な御霊の願いを聞いていくと、
その本質は命へのリスペクト、
尊厳の回復ではないかな、と思います。
だから、供養の本質というのは、
その命の肯定であり、
いかなる人生であったとしても、
あなたの命の根は清らかである、
と知らしめることだろうと
私は理解しています。
とは言え、極悪非道な所業を重ねた
御霊をどうして肯定できようか
という意見もあるでしょう。
けれど、
そういう人生になってしまったには
そうなってしまったなりの理由があり、
大抵はタイムラインを遡って
そのような地獄に引きずり込んだ種を
解消していくと、鬼のようなキツく
険しい形相の御霊も、穏やかに
清らかな姿に変容していくのですよね。
まぁ、私のセッションで出てくる存在ですから、
本当にヤバイのには出会っていない
かもしれない可能性は十分にあるものの、
一見しておどろおどろしい姿の存在でも、
清らかな光を放つ可能性があるというのを
いつも見せていただくので、
存在の可能性をいかに引き出し、
見ていくかという視点は大事かな
と思っています。
ひょっとしたら、私たち自身が
そういう存在をそのようにしてしまった
加害者であるかもしれないですしね。
障りをもたらす存在は人だけではなく、
私たちが不当に汚した生き物のときもあります。
知られたところでは蠱毒など、
生き物を使って呪いをかける外法もあり、
セッションの中でもこれまで何度が
遭遇したことがあるのですが、
これほど生き物の命を侮辱し、
それを利用できる者の傲慢さ、浅はかさは
ないだろうと思います。
こういう術を使う者の末期は悲惨なもので、
他者の命を侮蔑することはそのまま、
自身の命を汚していることにもなります。
術をかけられた人、かけた人、
そしてその術に利用された生き物たちの
命の尊厳を回復していくことが
処方箋になります。
こういう闇側の呪術の他にも、
私たちがあまり気にせず命を蹂躙している
こともあります。
たとえば、生業として
ウナギや鶏、魚や様々な生き物の肉や皮など
身体を利用するお店の方が、
自分たちが利用した生き物のために
供養塚を祀っていることがあります。
今まであまり思い至らなかったのですが、
これも実はとても重要な意味があったのだな
と最近知りました。
そうした生き物たちも、
自分たちの命を大切に扱ってほしいし、
無駄に踏みにじられたくはないのです。
ぞんざいに扱われた命は、
様々な形でメッセージを送ってくる
ことがあり、あの供養塚も、
そういうメッセージを受け取った
ご先祖様たちが作ったものなのでしょう。
アイヌやマタギの方たちは、
そうした生き物たちへのリスペクトと
感謝の念を忘れずにいただく文化が
ありましたが、
スーパーで簡単に肉や魚など
あらゆる食材が手に入る現代を生きる
私たちも、忘れずにいたいものですね。