人は、望みがどうしても叶わないとき、
諦めたり、様々な葛藤を通して、
別の道を見出して昇華させたりします。
本当に自分自身に向き合い抜いて、
叶わぬ望みを消化・昇華できたのなら、
かつて抱いていた望みに思いが残ることは
ないのですが、
諦めの場合は、ただ蓋をしただけなので、
どれだけもっともらしい理屈をつけて、
頭で納得させたのだとしても、
心の奥底ではわだかまりが残っています。
自分に向き合う作業をしている方に、
しばしばこの二つを混同されている方も
あるようなので、
以前にも「諦めの蓋」というキーワードで
書いたことがありましたが、
改めて書いてみますね。
叶わぬ望みを抱き続けることは
とても苦痛を感じることです。
それが欲しくて欲しくてたまらないのに
絶望的なまでに叶わない現実を
味わい続けるのは、気が狂うほどに
辛いことなので、
こんな苦しみを抱えていては
とても生きていくことが出来ない、
と、望みに蓋をするようになります。
まるで、そんな望みなど最初から
無かったかのように、
心の奥底にその苦しみを沈めて、
決して思い出すことなどないように、
そして、もし思い出したとしても、
そんなものは下らないことだった、
大したことなかったなどといった風に
思い込ませて、
再びあの狂おしい苦痛が襲ってこないよう、
厳重に封印をかけて、蓋をするんですね。
この思い込みの暗示は人によって
深さが違うでしょうが、
いずれにせよやっていることは同じで、
抑圧であり蓋なのです。
求め続けているエネルギー自体は
何ら消えたわけではないので、
沈められた潜在意識領域で、
依然として暴れて本人の心理状況に
厳然たる影響を及ぼし続けています。
では、このエネルギーを本当に
統合して昇華させていくには
どうしたら良いのでしょうか?
私は、叶わぬ望みというのは、
何かしら、そこに見るべき
人生からの学びが差し出されている状態
であると思っています。
それをうまく受け取って応答できないとき、
人は諦め蓋をして、無かったことに
してしまうのでしょう。
けれどそれは、たとえて言うならば
学校から出された宿題を、どうしても
解けないから、くしゃくしゃに丸めて
無かったことにしてやり過ごそうとしている
生徒みたいなものでしょう。
そんなことをしても及第点はもらえませんし、
課題を差し戻されるのがオチです。
人生もやはり同じで、
何度でも叶わぬ望みに苦しむ場面が
やって来るでしょう。
そうやって、何度も何度も望みに破れて、
人生はそんなものだという思い込みを
深めていくのかもしれません。
けれど、失望と絶望ではなく、
本当はそこから掴み取らなければいけない
何かがあったはずだと思うのですよね。
それが何なのか。
きっとそれは、あなた自身の今の在り方を
大きく転換させるカギに
なるものだろうと思います。
だから、今の在り方のままでは、
やはりその望みは叶わないのです。
何かに気づき、掴み取ったあなたでなければ、
人生における、その叶わぬ望みの本当の意味
というのは見えてこないでしょう。
だから、諦め、蓋をしただけでは、
あなたの人生は虚しいもので
あり続けるでしょう。
けれど、
それはあなたの人生の真の姿ではありません。
あなたがまだ、シフトした世界に通じる
扉を見つけていないし、また、
見つけようとしていないだけなのです。
そんなこと言われても、
散々努力してきたし、できることは
やってきたという方もあるでしょう。
それでも私は言います。
まだ見えていない扉がある、と。
その見方、考え方の枠組みの中では
見えないのです。
その硬直した枠組みを壊し、
外したところから、全く新しい目で
見なければならないのです。
それがどういうものなのか、
人によって、見るべきポイントは
あるでしょう。
何を、どう見たら良いのか、
私がお伝えしている鏡の法則を通して
鏡の像を注意深く読み解くことでも
わかってくることがあるでしょう。
自分ではどうしてもわからない
という方は、サポートをお受けになるなり、
何か今とは違った視野を開いてくれるものを
ご自身で求めることです。
本当にその望みは自分自身の奥深い
真実からやって来るものなのか。
何かを埋めるための代償として
求めているものではないのか、
それを求めているのは誰なのか。
どうやって望みを叶えるかの前に、
問うべき根本的な問いがあるはずです。
衝動的に煽られるだけではなく、
そういう問いかけを通して
より深く自分の心の本質に迫り、
自分を知っていく力を養いましょう。
叶わぬ望みは、それを通して
自分自身を深く知り、昇華させていく
糧になるでしょう。