自分の殻を破っていくときは、誰しもとても勇気が要ることです。今までそれを避けるためにどれだけの遠回りをし、エネルギーを費やしてきたことでしょう。けれど、もうそのやり方は止めようと決めたのなら、越えて行くべきものがあります。
向き合うことに恐れを感じるのは自然なことです。それが悪いわけでもないし、問題でもありません。成長していこうとするが故の壁なのですから、壁に当たったらチャレンジしている自分を褒めてあげてもいいくらいです。
壁に当たらないような生き方では、大きな成長はないとさえ言えるでしょう。
小さな枠の中にいつまでも収まっているのは、壁にぶち当たる苦しみは避けられますが、その替わりに体に合わない枠の中に自分を押し込め続ける苦しみを引き受けることになります。
自分が自分でなくなってしまう、と変化を恐れる人は多いですが、自身のアイデンティティは、今この瞬間にいくらでも変えて行けるものです。なぜ変わってはいけないのでしょうか。誰がそれを否定していますか。
この問いを注意深くぶつけていくと、自身の中で「変えてはならない、変わっていくのは都合が悪い」と思っている存在の姿が見えてきます。
その名を「エゴ」と言いますが、感情解放のワークでは、いかにエゴとの適切な関係を構築するかは重要なテーマになっています。
エゴはしばしば、私たちが解放されて行くことに抵抗します。エゴの役割は本来、私たち自身を苦しみから守ることです。そして私たちはエゴによって長いこと、生々しい苦しみを感じることから守られながら、どうにかここまで生きてきました。
けれどエゴのその苦痛回避の方法は、苦しみを抑圧し、自分を分離させ、切り離すことでした。そのやり方は根本的な苦痛を消し去るものではなく、苦しみを長引かせ、あるいは別の苦しみを新たに生み出すようなものでした。
私たちはある時期に、苦しみから逃げ続けているのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう?何かが間違っているのだろうか?と疑問を抱くようになります。そして、様々なメソッドを学んだりカウンセリングやヒーリングなどを受けたりしながら、この生きにくさから解放される方法を探求するのです。
エゴはそうしたスピリチュアルな探求は大好きです。けれど、その探求で真実に触れてしまうことは嫌なのです。なぜかというと、真実に触れてしまうと、それまでエゴが守ってきた「私」という存在をコントロール下に置くことができなくなってしまうからです。
つまり、エゴは主人の座から降りなくてはいけなくなるのです。エゴはそれをとても恐れています。
私たちはほぼ、自分とエゴが別のものだという認識は持っていないと思います。私とはエゴのことなのだと思っているでしょう。けれど、実は別の存在だったのです。
このことは、私たちが真実に向かう探求をする上で非常に重要な意味を持ちます。
私たちはしばしば、自分を含めたあらゆる状況をコントロールできないことを恐れます。けれど、恐れているのは実は「私」ではなく、エゴです。「自分が壊れてしまう、自分が自分ではなくなってしまう」と恐れるのも、エゴなのです。
本来の「私」は、ただ「体験する意識」です。自分が壊れてしまうと感じるような状況すらも、体験し続けている意識であり、それは状況によって影響を受けるものではありません。
このことをお伝えするのに、私自身ある体験をお話してみようと思います。
あるとき、感情解放ワークをしていて一つの過去世が浮上してきました。私は年老いた男性で、もうすぐ死んでいくところでした。そのときは彼の詳しい人生のストーリーは出てこなかったのですが、ベッドの上で段々と機能を停止していく自分の身体を感じていました。
側に誰かがいるのかもわかりませんでしたが、肉体が呼吸を止め、心臓が止まり、血液が流れなくなって死んで行く自分が分かりました。死んでいくことに恐れはありませんでしたが、これまで当たり前のようにやって来ていたこの人生の明日は、もう二度とやって来ないという、何とも言えない感慨はありました。
明日の約束も、また今度やろうと思っていたあれもこれもが、もう二度とそこに戻ることは無いという絶対的な不可逆性の感覚が、厳然と突き付けられていました。
私たちの魂は、こうした死を何十回、何百回となく体験しています。これはその一つの死の記憶でしたが、その人生におけるアイデンティティは消え去っても、私はまたこの人生を生き、体験は続いています。
この死の記憶は、私に永遠なる意識と、エゴとの絶対的な感覚の違いを教えてくれました。
エゴはしばしば悪者にされますが、私たちはエゴのやり方によって苦痛を回避しているわけですから、メリットも得ているわけです。それに満足しないというのなら、私たちは自身で苦痛の責任を引き受けなければなりません。
私たちが自身の責任を果たすことは、エゴに本来のポジションに戻り、役割を果たすことを促します。
このことは、私たちが霊的に成長し、目覚めていく上でとても重要なレッスンなので、また別の機会に書いてみます。