本当に自分を幸せにできるのは自分だけ。
そして、その責任が自分には確かにある。
最近でこそそう思えるようになって
いますが、私の人生では長い間、
そうは思っていませんでした。
私がこんなに苦しいのは誰かのせい、
何かのせいだと常に思ってましたし、
それを叶えてくれない相手は
ひどい人なのだと信じていました。
ある人と何気ない話をしていて、
その話し方、考え方が昔の私にそっくりで、
こういう風に私は自分に制限をかけて
いたのだなぁと思いました。
それは、自分の思いやニーズを飲み込んで、
その場では相手に従っておきながら、
後で不満を漏らすこと。
そして、更に悪いことに、その不満を
随分経ってからまとめて噴火させること。
本人はかなり意図的にやっているようですが、
それが趣味なのかな?と思うくらいに
限界まで我慢して、あるとき変なところで
爆発しています。
素直に「それ、嫌なんだ」とか「こうしたい」
「こんな風にしてほしい」とか言えばいいのに、
本当はすごく嫌なことを黙っているのって、
自分に対しても、相手に対しても
不誠実なことだな、と私は思います。
そりゃぁ言い辛い時もあるでしょうけれど、
言っても別に相手はそれならそれで
受け止めてくれそうなところでも、
早速待ってました!とばかりに
自分が我慢して被害者になり、
すかさず相手を加害者にする。
(としか見えないのですよね)
いや、なかなかにめんどくさい
心理構造ですね。
(一応、これ↑身内のことなので
結構毒づいてます。笑)
私が「自分の欲求をちゃんと伝えないのだから
そうなるのは当たり前、きちんと伝えることも
自分の責任だよ」と伝えると、
「お前はわかっていない」「なんて非常識な」
と言わんばかりに恨みがましい口調で
全く同調も同情もしない私を非難します。
本人は、ただ同調してほしかっただけ
なのかもしれませんが、
自分に対する責任を果たすことなく、
相手にどうにかして思うように動いてほしい
という考え方には1ミリも共感できないので
それは違うと思う、ときっぱり伝えました。
自分への責任を果たさずに問答無用で
自分に我慢を強いることの方がよほど
ひどいことだと思うのですがね。
考え方のベースが違うと、
アウトプットされる言動も全く違ってくるので、
どこまで行っても平行線です。
理不尽と思ってもぐっと飲みこんで
表面的な和を保つことが何よりの美徳で、
それを壊すことは許すべからざること、
ちょっとでも出る杭になったら
徹底的に叩かれるという経験を何十年も
積み重ねてきた人には、おいそれとは
方向転換できないのかもしれません。
私自身を振り返ってみれば、
前の仕事で、死にそうなほど頑張って
負荷がかかっているのを見殺しにして
守ってくれなかった上司は最低だ!
とか思って被害者になってましたし、
今思えば、私は自分で自分のことを
守らなければいけなかったのに、
上司に責任転嫁をしたのですね。
自分が言えなかったことを、
会社に言ってくれなかった上司が悪い
って思ってたわけです。
でも、私は自分で言わなければ
ならなかったのです。
責任を果たしていないのは、私でした。
それを、誰かがやるべきこととしたことで、
やるべきことをやらないダメな上司という
加害者と、耐え忍び、傷つく自分という
被害者を生み出して、勝手に人生を
悲劇にしていました。
何かがうまくいっていない時というのは、
前提としている世界観が
違っているのかもしれません。
それは誰かがやってくれるもの、
という前提を変えることができなければ、
被害者と加害者が生じるのも
避けようのない必然になります。
それ以外に選択肢も見えなくなりますから、
悲劇にまっしぐらです。
そういうパターンから脱出したければ、
インプットされている前提の世界観を
変えなければなりません。
被害者になんてなりたくないはずなのに、
そうなってしまっているとき、
自ら放っている被害者のバイブレーションに
気付きましょう。
そしてその反対にいる相手に貼っている
加害者というラベルを剥がして、
自分を幸せにするためにできることは何か
と問うてみましょう。
まだやっていないこと、やるべきだと
分かっていながら逃げていることが
ないかどうか。
それをやらずに済ますために
被害者になっていないかどうか。
それをすることが、幸せにつながるのかどうか。
自分のエネルギーをシンプルに、
自身を幸せにするために使いましょう。
自分の幸せのために、
被害者も加害者も必要ないはずです。