自分のことと言うのは身近すぎて
よくわからないことが多いもので、
自身の認識と実際が大きく違っていたり、
正反対なんてことも良くあります。
自分ではそんな風に思っているつもり
はなくても、チェックをかけると
しっかりそういう反応が出たり、
大丈夫、行ける!と頭では思っているのに
実際はそういう体勢になっていない
なんてことはセッションやっていても
日常茶飯事です。
そこをどう修正していくかが
重要なポイントになってくるのですが、
そのときに引っかかってくるのが、
その人の持っている価値観と
ジャッジメント、恐れです。
たとえば、自分の理想像とはかけ離れた、
最もそうあってほしくない自身の要素を直視し、
認められる人はそう多くはありません。
そういう自分である、と言う可能性が
うっすら感じられた段階で、
無意識的にさっと自分でそれを隠して封をし、
私にそんなものは無い、と力強い確信とともに
断言する人もいます。
あるいは、抑圧してきたものを認め、
受け止めるべきだという思いが強すぎて、
そうすることに恐れを感じている自分を
抑圧して、別に恐くはない、と言う人もいます。
そうすることで、前に進めるなら
いくらでもそうすればいいと思いますが、
自分の真実を切り離した在り方で、
先に進めるほど道は甘くはありません。
必ずどこかで不調和と行き詰まりに
ぶち当たるでしょう。
中には、うまい具合にそうした居心地の悪さや
違和感を感じないように調整しながら行く人も
ありますが、
感受性を研ぎ澄ませていけば
必ず気づいてしまうはずのものを
気付かずに過ごせるということ自体、
その感性で深め、たどり着けるのは
その程度のところ、と言えるのでは
ないでしょうか。
そこで満足できる自分なのかどうか、
と言うところの問題なので、
違和感ない人は、そもそも問題にもならない
レベルのことでしょう。
自分自身に見たい要素とは反対の自分がいる
可能性にも、心を開いているか。
無ければ無いでいいし、あればあったで
その可能性を見逃さないくらいのスタンスで
注意深く、ニュートラルに見なければ、
本当の姿は見えないんじゃないでしょうか。
どれだけ注意深く見ても、
私たちの見る力は完璧だとはだれも
言い切れないはずです。
にもかかわらず、
そんなことはあり得ない、と答えるのは
最初から決めつけて、
見たくない可能性にブラインドしていることを
自ら証明しているようなものです。
より正確に言うならば、
今の自分には認識できないけれど、
そういう可能性が100%ないとは言い切れない、
というくらいが限界ではないでしょうか。
そのくらい、私たちの認識と言うのは
暫定値なんだろうと思います。
そういう可能性をどこまで拾える感性の
在り方をしているのか、で、
人生の生きやすさも随分違ってくるでしょう。
よく、鋭敏な感性を持っている人は
凡人ではとても拾いきれない情報も
拾ってしまって非常に生き辛いため、
自ら閉ざしているというケースも多いです。
たとえば、スピリチュアルな能力が
生まれながらに天然で開いていて
五感では捉えられないものが感じられて
仕舞う場合など。
そういう感覚で捉えられる体験を
自分で折り合いをつけ、不自由なく対処できる
力がついていない状態で感性が開いているのは
苦しいものでしょう。
一方で、一般に多くの人が普通に捉えられる
感覚が捉えられないのに、その状況に
うまく対処できない時も、非常に苦しみが
ありますね。
感覚が閉じていても開いていても、
十分にそれに対処できる自分が
確立されていればいいわけですが、
そこができていないときに、
人生はとても苦しくなるのです。
だから、セッションなどでも
意識、無意識的に閉ざしていたところを
開くには、開いた後に対処できる自分を
しっかり整えることをかなり重要視します。
逆に、そこができていないと、
どんなに頭で前に進もうとしても、
扉は開きません。
だから、セルフワークをしていて
自分では準備ができているはずなのに
全然何にも見えてこない、聞こえてこない
のであれば、
それはとりも直さず、
自分自身が準備できていないし、
準備できていない自分に気づくことすら
できていないのだ、と気づかなければなりません。
心の封印の向こう側のエネルギーは、
長いこと抑圧されて、本当は一刻も早く
出て来たいのです。
もし準備が整っていたならば、
出てこないはずはありません。
事態が動かないのであれば、
まだ自分が気付けていない要素がないのかどうか
と、自分で問い、工夫して見つけていくくらいの
主体性をもって自分に向き合うならば、
開かぬ扉はないでしょう。