淋しさや孤独という感情は、深いレベルでは「死んでしまうかもしれない」という生存本能に基づく恐怖にダイレクトにつながっているため、狂おしい程の衝動を伴って私たちを行動に駆り立てます。これが様々な人間関係のゲームを生み出すのですが、これを癒すとこうしたゲームに巻き込まれにくくなるので、とても自由になります。
私たちが人生で体験する、多くの絡み合った人間関係の根底には、ほぼこの淋しさや孤独があります。たとえば、恋愛で互いにひどく傷つけ合っているのに、なかなか別れることができないというようなとき、そこには別れることで訪れるであろう、恐ろしいまでの孤独感や淋しさを何とか回避したいという動機があったりします。
あの孤独感や淋しさを味わうくらいなら、決して満足はしていないこのひどい関係でも我慢していた方がマシ、と思ってしまうのです。
また相手に異常なまでに執着し、束縛するのも、やはり孤独や淋しさを埋めてくれる相手を失うことへの恐怖がそうさせるのでしょう。その行為がいかに度を逸していても、喪失の恐怖は理性の抑制をはるかに凌駕していますから、半ばパニックのようになっていて、頭で抑えようにも抑えきれないのです。
溺れる者はワラをも掴むと言いますが、何か少しでもすがれそうなものがあれば、すがらずにはいられません。そしてそういう人が引き寄せるのは、不思議と自分と同種の淋しさや孤独を抱えた人たちであるのは、鏡の法則から見れば必然と言えるでしょう。
淋しさや孤独というのは、ただ単に淋しいだけ、孤独なだけではなく、死という恐怖と直結しています。それは幼い時に保護者の庇護が無ければ生きていけなかった時代の思いなのですが、それが大人になっても残っていて、本当は自分でちゃんと生きていけるのに、恐怖で心が固まってしまって機能不全を引き起こしているのです。
あるいは、感情解放のワークをしているとしばしば出てくるのが過去世の記憶で、これはリーディングができない人でも、今この瞬間の気持ちを深く掘り下げて行くことで自然に出てきます。
孤独をひどく恐れる人は、しばしば孤独の内に独りぼっちで死んでいった過去世の記憶を持っています。もうあんな思いは絶対にしてはならぬという強烈なプログラムが、魂に刻みこまれているのです。
それが、たとえば「人に嫌われてはならない」「本心を見せてはならない」「人に受け入れられる自分でなければならない」という信念を生み出して、人に嫌われそうだと思える自分の側面を徹底的に抑圧したり、素の自分を見せることを恐れたりという生き辛さにつながって行きます。
こうした信念を外して楽になりたければ、それを生み出す元になった淋しさや孤独を受け止めていく必要があります。表面的に思考を書き換えても、淋しさや孤独のエネルギーが残っている状態では、「やっぱり恐い!」と戻ってしまいます。
根本的に淋しさや孤独を癒し解放すれば、そもそもこうした思考はそれらを避けるがためのプログラムなので存在する必要がなくなり、書き換えなくてもきれいになくなってしまいます。
ではどのようにすれば、これらが癒され、解放できるのでしょうか?
私たちの多くはそれを直視するのも恐ろしく、気づくことさえタブーになっていたりするほどです。
どんなに見ないふりをしても、日常の気分にはそこはかとなくこの淋しさや孤独がにじみ出てきていて耐え難いと思うのなら、肚を決めて意識を向けてみましょう。
淋しさや孤独は心で感じるもののように思えますが、実は身体でも感じています。「身を切るような淋しさ」とか「はらわたが凍り付くような孤独」など、それらの感情には必ず体感覚があります。深く命を身体のその部分に導くようなイメージでゆっくり呼吸をしながら、この体感覚を感じていきましょう。
呼吸をしっかりしながら感じていけば、落ち着いてこれらの体感覚を感じ、そこに命のエネルギーを導くことができます。このエネルギーがうまく淋しさや孤独に染み透っていけば、それらを弛め、融かしていくことができます。
実際のワークでは、単に淋しいとか孤独だとかだけではなく、他にも罪悪感や憎しみ、ショックなどの感情が入り乱れて固まっていることがよくあります。それらひとつひとつに命のエネルギーを送りながら、そこに封印されている飲み込んだ言葉、思いを吐き出していくことで、薄皮を剥がすように解放されていくのです。
このように、あなたの心の最も深いところに封印されていた淋しさや孤独が解放されると、あなたは別れを恐れなくなります。自分を在るがままに表現すること、嫌なものは嫌、好きなものは好きと自然に表現できるようになるでしょう。
自分の心が心地よく感じられる選択が躊躇なくできるということは、どれほどの自由をあなたにもたらすでしょうか。恐れを持ち続けるより、今、自由を選択しましょう。