最近の学校教育ばかりではなく、
私を含むアラフィフ世代の子供時代も
そうだったな~と思うのですが、
多分、多くの方が先生や親から、
みんなと仲良くしなさい、
そうするのが良いことなんだ、
というように言われてきたと思います。
一見、良いことのように思うのですが、
この考え方の前提には、性善説と言うか、
話せばわかる、みたいな考えが
あるんじゃないかな、と思います。
どんなに努力しても分かり合えないこともあるし、
人間関係の中には理解できないほどに、
ひどいことが起こることもある、
という前提がないのではないかと。
だから、実際にそういう目に遭ったときに、
どう対応したらいいのか、当事者である子供
(大人の場合もあるけど)を適切に
導いてあげられないし、
相談されたりしても、そもそも
悪や不平等はないはずだ、というような
フィルターをかけたり、そういう予定調和に
持ち込みたい結論ありきの硬直した頭では、
現実に適切な対処ができないと思うのです。
言いようもなくひどいことが
目の前で起こっている、となったときに、
そんなことはあってはならない、
という思いがあると、その現実を
受け止めることができません。
あってはならないので、逃げ腰で
なんだかんだ言って取り合わなかったり
無かったことにしようと隠ぺい工作を
してしまったりします。
現実にこういう行動を取ることも
あるでしょうし、心理的にそう言う働きが
起こることもあります。
みんな仲良く朗らかに、平等、
良い子、良い人で。
実際にはそんなことあり得ないのに、
そういうビジョンをある種、
様々に求められるが故に、
そうでない状態を自己の内外に見たとき、
非常に混乱し、葛藤するのでしょう。
中には、ネガティブな感情を抱く自分を
いけない人間なんだと責めてしまったり、
おかしいんじゃないかと思ってみたり、
という方もしばしば見かけます。
昨今、この国の多くの人々が眠っていて
行動ができないのは、こういう心理も、
一つの要因になっているところは
あるんじゃないかな、と思います。
良いことは良い、悪いことは悪い、と
人の道をきちんと教え導く価値観が、
現代社会では相当にぐちゃぐちゃに
なっているようにも感じます。
グローバル社会の様々な価値観の多様性に
揉まれる時代になって、私たちは、
確かに以前の価値観では測れないような
出来事にもたくさん直面してきています。
けれども、
様々な価値観に触れる時代だからこそ、
自分たちがどんな基準をもって
それらを評価し、受け入れるのかという軸を
よりしっかりと持たなければ
いけなかったのではないでしょうか。
それがないままに、
様々な価値観をぐちゃぐちゃに受け入れ、
混乱しているのが、今の私たちの
社会であるような気もします。
異質なものに触れたときに、
それを自分の中でどう感じるのか、
何を評価し、何が受け入れ難いのか、
受け入れ難いのだとしたら、
それはなぜなのか。その背景に筋の通った
ものが自分の中で説明できるのか。
安易にそれを全肯定して自分の中の違和感、
葛藤を抑圧して丸呑みするのが
良いことなのではないのです。
ダメなものにはダメと言わなければ
ならないし、良いことは大いに励まし、
取り入れたらいいのです。
適切にそれをするには、
自分の中に自分なりの基準を持つことは
絶対に不可欠です。
それが個人であれば人間観、死生観
につながって行くし、国であれば国家観、
歴史観につながって行くことになるでしょう。
日本人は、しばしば時代の転換期で
それまで自分たちが大切にしていたものを
どんどん捨てて、異質な価値観を礼賛し、
取り込んでいく、ということをしています。
それは、日本人の柔軟性、適応力の高さ
と言う長所でもあるでしょうけれど、
本当に大切な宝物を二束三文で捨てて
消し去ってしまう、というのは
あまりに惜しいことです。
また、昨今のスピリチュアル業界では、
ポジティブばかりを見てネガティブに
きちんと対峙しないような考え方を
持つ方も多くあるようです。
けれどそれは、非常に偏ったものの見方で、
これまでも繰り返し書いてきていますが、
見ないことにしたネガティブに、
足元をすくわれることになっていきます。
波動が低いとか高いとかいう話も
ナンセンスなことで、
ネガティブを恐れて見ない、
無いことにして逃げるのではなく、
どんな領域も自在に見て、触れ、
対処できる自分であることの方が
ずっと有益であるし、大事なことだと
私は思っています。
ダメなことをダメと言えず、
ことなかれ主義で問題があっても
頭を抱えて静かにしてそれが過ぎ去って
行ってくれるのを黙って待っている。
自らが依って立つ軸もなく、
声の大きく力の強い者の言い分に
左右されるだけの根のない人間。
個人のレベルから国家のレベルまで、
至る所にそんな姿が見えます。
それはおかしいし、それではいけない
と私は思うので、
これからは、できるかぎり学び続け、
この国が民主国家である限り、
自分の考えを発言していこうと思うのでした。